2023年11月6日 更新
東山紀之の若い頃、彼の「少年隊」での活躍と年下好みの女性遍歴
ジャニー喜多川氏による性加害問題で、2023年9月、10月にジャニーズ事務所が記者会見を開いた。その時に注目された東山紀之氏のジャニー氏との出会いから、「少年隊」デビュー。そしてアイドル時代を振り返りながら、10代好きな女性遍歴を思い出してみた。
壮絶な生い立ちを経て、東山紀之は、ジャニー喜多川氏と出会った
東山紀之は、1966年9月30日神奈川県川崎市に生まれる。3歳のときに両親が離婚。妹と一緒に母に引き取られる。小学生に時に母親は再婚。継父による暴力など複雑な家庭で育つ。母親は再度離婚。小学6年生のときに渋谷スクランブル交差点で信号待ちをしていた東山に車で通りかかった当時のジャニーズ事務所の社長であるジャニー喜多川が声をかけスカウトされる。1979年5月、13歳でジャニーズ事務所に入り合宿所生活を始める。
渋谷スクランブル交差点
当時のジャニーズ事務所のタレントは、目が大きく、ハーフ顔が多かった。で異例だった。なぜ、一重瞼で坊主頭の東山少年が、ジャニー喜多川の目に留まったのか。考えられる理由として、一重切れ長の目の”しょうゆ顔”のブームが挙げられる。
1977-78年頃に原宿竹の子族の14歳の少年、沖田浩之が有名になった。
東山の外見の特長は、”しょうゆ顔”。奥二重の切れ長の目と父方の祖父のロシア人の血を引く白い肌だ。透明感のある白い肌は、ステージの照明で映える。アメリカのショービジネスを知っているジャニー氏は、他にない、魅力を東山に見出したのだろう。
完成度の高い「少年隊」は、ジャニー氏の最高傑作
1982年に錦織一清、植草克秀ととも少年隊のメンバーとなり、1985年12月12日にに「仮面舞踏会」でレコードデビューした。少年隊のメンバーは、バク転、バク宙を駆使した卓越した踊りを披露し「ジャニー氏の最高傑作」と言われた。
特に錦織 一清の踊りは、ジャニーズ史上NO.1とで呼ばれ人気を博した。また、植草克秀は、他に類を見ない少年っぽい甘い声で魅了した。「君だけに」などのヒット曲にも恵まれたが、何故か完成度の高い「少年隊」の名前は、後にデビューした「シブがき隊」ほど広く知られていない。
ジャニーズ事務所所属の3人組のデビューが続いた70年代、
1975年に「ジャニーズJr.」のメンバーで人気の3人による「JOHNNYS' ジュニア・スペシャル」が、『ベルサイユのばら』デビューしていた。1979年にTBSドラマ『3年B組金八先生』に生徒役で出演した田原俊彦・野村義男・近藤真彦の3人が「たのきんトリオ」と呼ばれた。「少年隊」がデビューした1982年には、『2年B組仙八先生』に生徒役を演じた布川敏和・本木雅弘・薬丸裕英の3名による「シブがき隊」もデビューした。
その後、「光GENJI」「SMAP」時代が到来するが、「少年隊」のメンバーの中で東山紀之だけが、知名度を上げる。
higashi(東山紀之)-1988 big summer stage
若かりし頃の東山紀之、裸にGジャン姿。ドラムを叩くと見え隠れする少年の腹…。
これもジャニー氏の演出によるものだろうか?
ジャニーズ事務所黄金期の中で、『少年隊』はジャンプや回転を駆使したスピード感がある踊りで知られ、アメリカでのレッスンも行われていた。
「少年隊」後のグループでは、ダンスよりタレント性が重きが置かれた。現在ダンスが上手いと言われている「SnowMan」と当時の「少年隊」の踊りの難易度は、大きく異なる。
少年隊 ABC(S.P. DANCE MIX)
東山紀之のソーセージ発言
ジャニーズ性加害問題の暴露本「SMAPへ―そして、すべてのジャニーズタレントへ」(2005)の著者で、元Jr.の木山将吾氏は、1985-88年頃にジャニー喜多川からの性被害を受けている。
東山の「僕のソーセージを食え」発言があった場合、それは同時期である可能性が高いと思われる。
少年隊『NHK紅白歌合戦』初出場をきっかけに、東と森光子は出会う
1986年少年隊は、『NHK紅白歌合戦』に初出場を果たす。その際に、審査員をつとめていた女優の森光子が東山に声をかけたことがきっかけで親交が始まった
1987年以降、東山はドラマに進出。そして、当時流行した”しょうゆ顔”の代表格として知名度を上げた。1993年にはNHK大河ドラマ「琉球の風」や森光子主演の舞台「御いのち」に出演した。
1993年にはNHK大河ドラマ「琉球の風」や森光子主演の舞台「御いのち」に出演した。
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右から、東山紀之、植草克秀、錦織一清。
少年隊は、三人ともバク転バク宙が出来る。