「仁徳天皇陵」が『大仙陵古墳(大山古墳))』に変更
大仙陵古墳(だいせんりょうこふん、大山古墳)のステレオ空中写真
この前方後円墳の写真は、仁徳天皇陵と学びましたが・・・学術上ここが仁徳天皇陵であると確定することは不可能であることにより、現在では教科書などを含めて「仁徳天皇陵」との呼び名は用いられなくなっている。
考古学的には仁徳天皇の陵であることに否定的な見解が唱えられているが、築造時期が5世紀前半~中頃との見方が確定することによって、文献史学上で想定される仁徳天皇の活動時期に近づくとする見解もある。
ただし、宮内庁が調査のための発掘を認めていない現状において、学術上ここが仁徳天皇陵であると確定することは不可能であることにより、現在では教科書などを含めて「仁徳天皇陵」との呼び名は用いられなくなっている。
仁徳天皇 (楊洲周延画)
名称の変遷と混乱の主因は、仁徳天皇の墓かどうかの論争にあり、1971年(昭和46年)以降「仁徳陵」の名称で呼ぶことが提唱された。しかし、これでは仁徳天皇の墓であることを否定したことにはならないため、1976年(昭和51年)以降、より学術的な遺跡の命名法に則り「大仙陵古墳」の使用が始まった。
宮内庁は仁徳天皇の墓に比定しており、地図上では「仁徳天皇陵」が採用されている(かつては「仁徳帝陵」を採用したものが多かった)。また、国民的にも(近畿地方、中でも地元大阪府では、大仙古墳よりも仁徳天皇陵のほうが広く認知されている)国際的にも定着した名称を重んずる意見も多数あり、学術用語としては流動的でいまだに確定しておらず、いずれもが正式名称として使用可能である。
(出典:Wikipedia「大仙陵古墳」)
宮内庁は仁徳天皇の墓に比定しており、地図上では「仁徳天皇陵」が採用されている(かつては「仁徳帝陵」を採用したものが多かった)。また、国民的にも(近畿地方、中でも地元大阪府では、大仙古墳よりも仁徳天皇陵のほうが広く認知されている)国際的にも定着した名称を重んずる意見も多数あり、学術用語としては流動的でいまだに確定しておらず、いずれもが正式名称として使用可能である。
(出典:Wikipedia「大仙陵古墳」)
「教科書に載っていることは正しい」と誰もが信じていたはず。それが時代と共に変わってしまうのは、いったいなぜなのだろうか。今年8月に出版された『いつのまにか変わっている地理・歴史の教科書』によると、その理由は大きく4つに分けられるという。
1.新たな発見などによる事実の変更
2.学会などでの表記変更を受けての名称の変更
3.学会などでも諸説ある中での記述の変更
4.表記に対する読みの変更
歴史というのは、さまざまな史料を分析して過去の出来事を推測するもの。歴史研究という学問が続いている以上、新たな史料が見つかったり、新しい研究結果が発表されたりして、それまで「おそらくこうであろう」と定説になっていたことがひっくり返るのは、よくあることなのだ。
「天皇陵名」ではなく「古墳名」の表記を採用した「仁徳天皇陵から大仙陵古墳(大山古墳)への記載変更」は2の「学会などでの表記変更を受けての名称の変更」の事例といえます。
「足利尊氏」の肖像(京都国立博物館所蔵)は、ただの「騎馬武者像」に変更されている
「足利尊氏」の肖像から「騎馬武者像」に変更
足利 尊氏(あしかが たかうじ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代の武将。室町幕府の初代征夷大将軍(在職:1338年 - 1358年)。足利将軍家の祖。
京都国立博物館所蔵の「騎馬武者像」は、京都守屋家の旧蔵品だったことから、現在でも他の尊氏像と区別する必要もあって守屋家本と呼ばれる。松平定信編纂の『集古十種』で尊氏の肖像として紹介されたことから一般に広く知られていたが、2代将軍義詮の花押が像上部に据えられていることや、騎馬武者の馬具に描かれている輪違の紋が足利家ではなく高家の家紋であるなどの理由から、像主を高師直とする説、もしくは子師詮、師冬とする説などが出ている。
反面、『梅松論』における多々良浜の戦いに臨む尊氏の出で立ちが本像に近く、京都に凱旋した尊氏がこの時の姿を画工に描かせたという記録が残ることから、やはり尊氏像で正しいとする意見もある。
『太平記』によると、尊氏は後醍醐天皇へ叛旗を翻す直前に寺に籠もって元結を切り落としたといい、「騎馬武者像」の「一束切」の姿は、その後翻意して挙兵した際の姿を髣髴とさせるものではあり、その点をもって尊氏像と見なされてきたと考えられている。『太平記』では挙兵の際に味方の武士たちがみな尊氏にならって元結を切り落としたエピソードも伝えている。
(出典:Wikipedia「足利尊氏」)
京都国立博物館所蔵の「騎馬武者像」は、京都守屋家の旧蔵品だったことから、現在でも他の尊氏像と区別する必要もあって守屋家本と呼ばれる。松平定信編纂の『集古十種』で尊氏の肖像として紹介されたことから一般に広く知られていたが、2代将軍義詮の花押が像上部に据えられていることや、騎馬武者の馬具に描かれている輪違の紋が足利家ではなく高家の家紋であるなどの理由から、像主を高師直とする説、もしくは子師詮、師冬とする説などが出ている。
反面、『梅松論』における多々良浜の戦いに臨む尊氏の出で立ちが本像に近く、京都に凱旋した尊氏がこの時の姿を画工に描かせたという記録が残ることから、やはり尊氏像で正しいとする意見もある。
『太平記』によると、尊氏は後醍醐天皇へ叛旗を翻す直前に寺に籠もって元結を切り落としたといい、「騎馬武者像」の「一束切」の姿は、その後翻意して挙兵した際の姿を髣髴とさせるものではあり、その点をもって尊氏像と見なされてきたと考えられている。『太平記』では挙兵の際に味方の武士たちがみな尊氏にならって元結を切り落としたエピソードも伝えている。
(出典:Wikipedia「足利尊氏」)
黒い馬にまたがり、刀を担ぐ武将。かつて「足利尊氏像」とされていた肖像画だが、現在は単に「騎馬武者像」とされ、他社の教科書にもあまり掲載されなくなった。コラムは、馬具の家紋などから「(尊氏の重臣の)高師直(こうのもろなお)、あるいはその一族の者と理解されるようになった」としている。
大化の改新は645年から646年に変更される
中大兄皇子(後の天智天皇)や中臣鎌足(後の藤原鎌足)らが蘇我入鹿を暗殺し蘇我氏本宗家を滅ぼした「乙巳の変(645年)」の後に『大化の改新(646年)』が行われる
「乙巳の変(645年)」の絵
江戸時代、住吉如慶・具慶の合作によって描かれたもの。左上は皇極女帝。
談山神社所蔵『多武峰縁起絵巻』(奈良県桜井市)
江戸時代、住吉如慶・具慶の合作によって描かれたもの。左上は皇極女帝。
談山神社所蔵『多武峰縁起絵巻』(奈良県桜井市)
語呂合わせ「645年(無事故=むじこで終わった)大化の改新」「蒸し米で祝おう大化の改新」と年号を覚えていましたね。
大化の改新(たいかのかいしん)は、飛鳥時代の孝徳天皇2年(大化2年)春正月甲子朔(西暦646年)に発布された改新の詔に基づく政治的改革。
中大兄皇子(後の天智天皇)や中臣鎌足(後の藤原鎌足)らが蘇我入鹿を暗殺し蘇我氏本宗家を滅ぼした乙巳の変の後に行われたとされる(ただし、蝦夷・入鹿暗殺の乙巳の変からとする場合もある)。天皇の宮を飛鳥から難波宮(現在の大阪市中央区)に移し、蘇我氏など飛鳥の豪族を中心とした政治から天皇中心の政治へと移り変わったとされる。
また「大化」は日本最初の元号である。
ほとんどの日本人が「645年」と答えるであろう「大化の改新」は、“蒸し米で祝おう”などと覚えたが、今の教科書では、646年の改新の詔から始まる政治改革に書き換わっている。
「聖徳太子」という呼称は生前にはなく、「厩戸皇子または厩戸王」の後世の呼称である。
聖徳太子(しょうとくたいし、敏達天皇3年1月1日(574年2月7日) - 推古天皇30年2月22日(622年4月8日))は、飛鳥時代の皇族、政治家。厩戸皇子または厩戸王の後世の呼称。用明天皇の第二皇子、母は欽明天皇の皇女・穴穂部間人皇女。
推古天皇のもと、蘇我馬子と協調して政治を行い、国際的緊張のなかで遣隋使を派遣するなど大陸の進んだ文化や制度をとりいれて、冠位十二階や十七条憲法を定めるなど天皇を中心とした中央集権国家体制の確立を図った他、仏教を厚く信仰し興隆につとめた。
聖徳太子という呼称は生前にはなく、没後100年以上を経て天平勝宝3年(751年)に編纂された『懐風藻』が初出と言われる。
そして、平安時代に成立した史書である『日本三代実録』『大鏡』『東大寺要録』『水鏡』等はいずれも「聖徳太子」と記載し、「厩戸」「豐聰耳」などの表記は見えないため、遅くともこの時期には「聖徳太子」の名が一般的な呼称となっていたことが伺える。
実は、これまでも聖徳太子の存在感は年々、薄くなっていた。歴史教科書の最大手・山川出版社の教科書の過去と現在の記述を見比べてみれば、違いは一目瞭然だ。
いまから25年前、1988年の教科書では、〈推古天皇は、翌年、甥の聖徳太子(厩戸皇子)を摂政とし、国政を担当させた〉となっていたが、今年度の教科書では、〈推古天皇の甥の厩戸王(聖徳太子)らが協力して国家組織の形成を進めた〉(以下、教科書の引用は山川出版社より)となっている。
聖徳太子より厩戸王という呼び名が強調され、「国政の担当者」から「協力者」に格下げされている。歴史研究によって、この時代に「摂政」という役職は存在せず、「聖徳太子」という名前も、死後100年後くらいから呼ばれたものだと判明したからだ。
「西郷隆盛」の版画は西郷の親戚を参考に想像で描写したものなので本人の顔ではない
西郷の親戚を参考に想像で描写した「西郷隆盛」の版画
西郷 隆盛(さいごう たかもり、旧字体: 西鄕隆盛、文政10年12月7日(1828年1月23日) - 明治10年(1877年)9月24日)は、日本の武士(薩摩藩士)、軍人、政治家。
大久保利通ら維新の立役者の写真が多数残っている中、西郷は自分の写真は無いと明治天皇に明言している。現在のところ西郷の写真は確認されていない。
死後に西郷の顔の肖像画は多数描かれているが、全ての肖像画及び銅像の基になったと言われる絵(エドアルド・キヨッソーネ作)は、比較的西郷に顔が似ていたといわれる実弟の西郷従道の顔の上半分、従弟・大山巌の顔の下半分を合成して描き、親戚関係者の考証を得て完成させたものである。
キヨッソーネ自身は西郷との面識が一切無かったが、キヨッソーネは上司であった得能良介を通じて多くの薩摩人と知り合っており、得能の娘婿であった西郷従道とも親しくしていたため、西郷を知る人の意見が取り入れられた満足のいく肖像画になっているのではないかと言われている。
(出典:Wikipedia「西郷隆盛」)
大久保利通ら維新の立役者の写真が多数残っている中、西郷は自分の写真は無いと明治天皇に明言している。現在のところ西郷の写真は確認されていない。
死後に西郷の顔の肖像画は多数描かれているが、全ての肖像画及び銅像の基になったと言われる絵(エドアルド・キヨッソーネ作)は、比較的西郷に顔が似ていたといわれる実弟の西郷従道の顔の上半分、従弟・大山巌の顔の下半分を合成して描き、親戚関係者の考証を得て完成させたものである。
キヨッソーネ自身は西郷との面識が一切無かったが、キヨッソーネは上司であった得能良介を通じて多くの薩摩人と知り合っており、得能の娘婿であった西郷従道とも親しくしていたため、西郷を知る人の意見が取り入れられた満足のいく肖像画になっているのではないかと言われている。
(出典:Wikipedia「西郷隆盛」)
「西郷隆盛」の版画は、イタリアの版画家・画家「エドアルド・キヨッソーネ」が、隆盛の弟・西郷従道の顔の上半分と、隆盛の父方の従弟・大山巌の顔の下半分を合成して想像で描いたもの。
左:隆盛の弟・西郷従道の顔の上半分、右:隆盛の父方の従弟・大山巌の顔の下半分を合成して、想像して描いたのが有名な上図の「西郷隆盛」の版画。