1944年8月、対アメリカ戦に備えた日本軍 によって、沖縄県に住む非戦闘員達は鹿児島 へ疎開する事となる。喜ぶ清、健治、勇ら だったが、悲劇は起こる。敵潜水艦の襲撃、 そして対馬丸の沈没…。生き延びた清はさ らなる悲しみに直面するのであった。 実際の生存者の証言をもとに作成されたド キュメンタリーアニメーション。平和、友 情、家族愛を考えさせられる。
昭和19年8月22日夜10時12分、沖縄から九州に向かう学童疎開船「対馬丸」がアメリカ潜水艦の魚雷を受け鹿児島南方海上で沈没した。船には学童を含む1,661人が乗っていたが生存者は159人。ほとんどの命が暗い波間に消えていった。多くの県民を戦争に巻き込んだ沖縄戦の序曲として忘れる事ができない。
子供達が「対馬丸」に乗るまで
清たち3人組の通う国民学校は、夏に入る頃から兵隊の宿舎としても使われるようになっていた。
学校で本土への疎開を説明する宮里先生。生徒たちは「軍艦に乗れるんですか?」と無邪気。
生徒たちの家を訪問し、疎開に消極的な親や子供を説得する教師たち。
市長(声・納谷悟朗)は疎開の「参加者が少ない!」と声を荒げる。
※ちなみに、この時の沖縄の人口は約59万人。軍からは「即時疎開者を10万人、開戦までには1人でも多くの60歳以上15歳未満の老幼婦女子と学童を本土に疎開させよ!」とのお達しがあった。
陽子の祖母は「ここで生まれて育った、動きたくない」と疎開に参加したくないと最後まで参加をしぶっていた。
そして出航
軍艦で行くと聞かされていたが、港にあるのは商船ばかり。
沈没
対馬丸での清たち
「修学旅行気分」だった清たち3人組はがっかりするが、好奇心旺盛の3人は船内を探検したり食堂にいた猫を見たりと自分たちなりに船を楽しもうとしていた。が、すぐに縄梯子を登る訓練や、救命胴衣の付け方などの指導が始まる。その夜から子供たちは救命胴衣をつけたまま甲板上で寝るようにとの指示が入った。