第2次UWF崩壊 弾け散ったパワー・オブ・ドリーム
2023年1月7日 更新

第2次UWF崩壊 弾け散ったパワー・オブ・ドリーム

1984年4月11日に旗揚げした第1次UWFは、様々な事件と前田日明と佐山聡のケンカマッチを経て1年半で崩壊。屈辱の新日本プロレス出戻り生活も前田日明が暴れまくったため2年半で終了。再旗揚げした第2次UWFは、社会現象といわれるほど若者を熱狂させながら、2年7ヵ月の活動にピリオドを打った。

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1989年5月4日、UWFは、大阪球場でビッグイベントを「U.W.F. MAY HISTORY 1st」を開催。
大阪球場は2万3000人と超満員。
藤原喜明 vs 船木誠勝の師弟対決が行われ、15分36秒、膝十字固めで師匠が勝利。
そして前田日明 はメインで クリス・ドールマンと対戦し、4R 30秒、膝十字固めで勝利した。

「オランダの赤鬼」クリス・ドールマンは、

・グレコローマンレスリング ベネルクス(ベルギー、オランダダ、ルクセンブルクの3ヵ国)選手権4度優勝
・柔道 ヨーロッパ柔道選手権 準優勝
・サンボ 世界選手権 優勝

極真空手やウエイトリフティングの大会でも上位入賞した経験を持ち、職業は、アムステルダムの用心棒派遣業でストリートファイト経験も豊富。
前田日明だけでなく自分のことも熱心に応援してくれた日本の観客に
「ファンタスティックで感動した」
という。
そして後年、以下のように告白している。

・UWF - 全日本キックボクシング連盟会長の金田敏男 - オランダのメジロジム会長、ヤン・プラスと経由してドールマンに試合のオファーが入った
・契約は2試合
・リアルファイトということだったが、契約後、間もなくヤン・プラスに「お前が負けることを受け入れない限り試合は行われない」といわれた
・44歳のドールマンは不服だったが、ギャラもよかったので「ファイトではなくゲーム」と割り切りフィックストマッチ(結末が決まっている試合)を受け入れた
・試合数日前、「オオサカのどこか」で前田とリハーサルを行い、試合内容も時間もすべて即興で、フィニッシュだけは膝十字固めと決まった

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前クリ

また大阪球場は23000人の超満員だったが、その内、数千人は無料招待券によるものだったという。
UWF四国後援会会長、徳島の格闘技界と音楽業界で知らない人はいないといわれるフクタレコードの福田典彦の後輩が松下電器にいて、大阪のパナソニックの販売店から数千枚の無料招待券を配布された。
UWFスタッフは
「人気に陰りというより、実際の人気以上にみせるための苦労。
大阪球場とか大きいハコで興行を打つのは、赤字になったとしても決して無駄ではない。
ゴールデンウィークに大阪球場を満杯にしたことで新たなスポンサーさんや企業さんがついてくれたし、1万円近いビデオが数千本も売れましたから、長い目で見れば黒字興行」
というが、かつて前売りチケットが発売開始なる前夜からプレイガイドの前にファンが並び始めたり、TV中継がないUWFを会社を休んで遠方まで観にいくことを「密航」と呼んで流行り言葉になったり、社会現象とまでいわれたUWFのチケットが売れ残っているのは確かだった。
旗揚げから1年が過ぎ、緊張感がない、つまらない試合が多くなり、最初はガマンして観ていたファンの足もやがてやがて遠のいていった。
またバリバリの革新派だった前田日明が、いつの間にか保守の権化と化していたことも人気低迷の大きな原因だった。
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UWF道場でも、藤原喜明、船木誠勝、鈴木みのるが新日本プロレスから移籍してくると、自己主張ができる彼らによって、変化が起こった。
それまで完全な縦社会だったが、
「盲目的に従うだけではいけない」
と自覚した安生洋二、宮戸優光、中野龍雄ら若手と前田日明、高田延彦、山崎一夫らベテランの間に亀裂が生じ、ベテラン3人が練習に顔を出さなくなったこともあった。
高田は、前田と同調しているようで
「前田さんに勝ったとしても自分がその上にいけるわけではない」
という思いや様々な葛藤を抱えていて、事務所などで前田にニアミスしそうになると、すぐに方向転換して帰ることもあった。
経営に危機感を抱く神新二社長、鈴木浩充専務は、前田に
「観客数が減って興行収益が減っているにもかかわらずレスラーの数が増えて人件費が増加している」
と伝えた。
しかし超満員の客から大声援を浴びて試合をした前田にしてみれば、お金がないといわれても信じられず、彼らが私腹を肥やしているのではないかと疑った。
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1989 年5月 21 日、19歳の田村潔司がデビュー戦で鈴木みのると対戦し、敗北。
藤波辰巳に憧れてプロレスラーを志し、岡山理科大学附属高校では相撲部に所属して国体に出場。
卒業後、UWF第1回新人入門テストで唯一の合格者となった。
そしてボロボロになりながらツラい練習を耐えていたが、
「いつかメインで戦おう」
と励まし合っていた仲間、第2回新人入門テストに合格した海老名保、堀口和郎が共にUWF道場での事故で引退するのを目の当たりにした。
海老名保は、後頭部を強打し痙攣を起こして救急車で搬送され、脳挫傷と診断され、開頭手術が行われることになった。
幼い頃、特撮ヒーローにハマって、タイガーマスクに憧れ、高校卒業後、上京してUWFに入った海老名は、
「改造人間になってきます」
といって手術室に入っていき、命は落とさなかったものの入門3ヵ月でデビューを果たせないまま道を断念することを余儀なくされた。
(2003年、ヒーロー好きが高じ、マスクを見よう見まねでつくっていた海老名は、秋田発・地産地消型ヒーロー「超神ネイガー」を企画・制作し、大ブレイク。
超神ネイガーはローカルヒーローの先駆けとなった)
堀口和郎も後頭部を強打し、痙攣を伴う昏睡状態に陥り、すぐに病院に運ばれ手術を受けたものの、翌日、脳挫傷のため、19才の若さで帰らぬ人となった。
田村は、以後毎年、命日に墓参りにいき、洗った墓石に堀口が好きだったポカリスエットをかけているという。
「19歳の若さで彼は逝ってしまった。
受身の練習中の事故で・・・
当時19歳の僕は、凄くショックで・・・・辛くて・・・
リセットボタンを押しかけて、この業界から辞めようとも思った。
クソくらい新弟子がいて、代わりはいくらでもいて、アイツは死んでしまうくらい頑張った。
でも頑張ろうにも・・・って考えてると僕自身辛かった日々も辛くなかったんだと思う。
だから今の僕があるのはアイツのおかげでもある。
今リセットボタンを押してしまいそうな人、あのときリセットボタンを押さなくて良かったと思うようになればいいですね」
(田村潔司)
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1989年8月13日、「UWF MIDSUMMER CREATION」が開催され、高田延彦 vs 船木誠勝に17000人 超満員の横浜アリーナは大熱狂。
顔面への拳での攻撃を禁じられているUWFで、ほとんどの選手はパンチの技術が低いため、相撲の張り手のような攻撃になってしまう。
しかし骨法で学んでいた掌打が使える船木は、拳を握らずにボクシングのように打ち方で顔面へ攻撃ができた。
その高田を掌打でKO寸前まで追い込みながらも、12分0秒、キャメルクラッチで逆転負け。
キャメルクラッチは、うつ伏せの相手に背中に馬乗りになってエビ反りにさせる技で、真剣勝負なら絶対に極まるはずのない技だった。
かつてアントニオ猪木は、モハメド・アリ戦(1976年2月6日)前に極真空手の道場に出向いてローキックを学び、そのモハメド・アリを破ったレオン・スピンクス戦(1986年10月9日)前には、堀部正史に骨法を学んだ。
骨法は、堀辺正史が東條英機の 身辺警護を務めたという父親から教わった武術で、このとき猪木に数人の若手が帯同していたが、その中に船木誠勝もいた。
船木誠勝は、レオン・スピンクス戦が終わった後も、世田谷野毛の新日本プロレス道場での合同稽古が終わった後、東中野の骨法の道場に通って練習。
堀部正史は
「実力で上がってやろう」
と意志を持ってUWFに移籍した船木を全面的に支持していた。
移籍後、実際はUWFはリアルファイトの格闘技団体ではなく格闘技の技を使うプロレス団体であることがわかり
「失望した」
とこぼす船木に堀部正史は、
「倒せ!」
と叱咤した。
船木は高田戦で、それができたはずなのに実行しなかった。
堀部は、「失望した」といいながらリアルファイトに踏み込むことに躊躇する船木に不満を感じ、その後も
「高田を倒せ」
「前田を倒せ」
といい続けたが、船木が実行することはなく、ついに
「ウチに来ている意味はないね」
といった。
すると船木は骨法の道場に来なくなった。
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「UWF MIDSUMMER CREATION」のメインでは、前田日明と藤原喜明が2年ぶりに対戦し、勝った前田には、カーセンサーから日産シーマが贈られた。
しかしその後、UWF事務所は
「ポルシェに乗っている前田はいらないだろう」
と判断し、シーマを社用車にして、主に鈴木浩充専務が乗っていた。
それをみた前田は
「選手がもらった車になんで鈴木が乗っとるんや?」
ついでに神新二社長に対しても
「お前の給料でどうしてベンツが買えるんや?」
とクレーム。
神社長は、取引先に足元をみられないように100万くらいで買ったと説明。
前田より年下で、ずっと
「おい、神」
と呼び捨てにされていた神社長だったが、
「TVに頼らず、興行数を月1回程度にすることでプレミアム感を増すビジネス展開は非常に革新的」
「21世紀型経営者」
と持ち上げられるようになると
「前田さん、何をいってるんですか。
社長と呼んでください」
と注意した。
するとそれ以降、以降、前田は変わったという。
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アントニオ猪木のファンだった神新二は、1983年2月、初代タイガーマスク(佐山聡)人気で絶頂にあった新日本プロレスに入社。
配属先は企画宣伝部で、与えられた仕事は営業本部長だった新間寿の運転手兼カバン持ち。
新日本プロレスを追われた新間がUWFを立ち上げると自然とそちらに移り、夜中、警官の目を避けながら大量のポスターを貼ったり、宣伝カーの乗ったり、販売店にチケットを配ったり、ときにはリングアナウンサーもやった。
1985年11月25日、第1次UWF時代、スタッフから退陣を迫られた浦田昇社長は借金だけを引き取って辞めると、UWFはたちまち経営難に陥り、スタッフは離散。
残ったのは神新二と、神に誘われてUWFに入った大学の同級生、鈴木浩充の2人だけだった。
前田らUWF勢は新日本プロレスに参戦したが、そのファイトマネーはUWFの口座に振り込まれ、神と鈴木はそれをそのままレスラーに渡し、自分たちの給料と世田谷に借りている事務所(高田延彦ファンクラブ会長、鈴木健が経営する文具屋の事務所を半分、間借り)の経費は、UWFのグッズを売って稼いだ。
神は、税金対策のために1987年2月にUWFを正式に株式会社として登記し、神が社長、鈴木は専務となった。
新日本プロレスと合併後、夢も希望も活躍の場もないUWFの若手、安生洋二、宮戸優光、中野龍雄に
「UWFを再旗揚げしてください」
と何度も頼まれ、ずっと断っていたが、
「もう1度やろうか」
という気持ちも起こっていた。
会社を登記して数か月後、6人タッグマッチでサソリ固めをかけようとして両手がふさがっている長州力に、前田日明が死角から顔面を蹴り、前頭骨(頭蓋骨の前頭部)亀裂骨折を負わせる「長州蹴撃事件」が起こった。
新日本プロレスは前田日明を無期限出場停止処分にしたが、世間には前田を擁護する意見も多数あり、神は、その声にも押され、
「やるしかない」
と覚悟を決め、親や親せき、UWFの後援者に資本金を出してもらった。
そして前田は新日本プロレスを解雇され、藤原喜明と木戸修を除くUWF勢は新日本プロレスを辞めて後を追い、第2次UWF誕生へとつながっていった。

前田日明×田村潔司

1989年9月7日、4500人、超満員の長野市運動公園総合体育館で「UWF FIGHTING BASE」が行われ、メインで藤原喜明と 船木誠勝が対戦。
船木誠勝は、キック、そして顔面への掌打、ボディへの拳でのパンチのコンビネーションで、投げも寝技も使わない斬新なスタイルで勝利。
UWFの新たな可能性を感じさせた。
1989年10月25日、19歳の田村潔司が前田日明と対戦。
本来は船木誠勝が戦うはずだったが、ケガで欠場したため、代りに田村が出場した。
船木と田村と同い年だが、業界としては船木が5年先輩。
しかしUWFの道場で初めて田村をみたとき、船木は、
「すごい新弟子だな」
「ちょっと憶えたらデビューできそうだな」
と思った。
代役となった田村は、これが5試合目。
試合開始直後から新人らしく思い切りぶつかっていく、気持ちがいい全力ファイト。
明らかにトレーニング不足の前田は、最初、田村の掌底やキックに対応できず、もらい続けた。
しかし地力で勝る前田は、すぐに攻め返し、田村の顔面に膝蹴りを数発叩き込んで、ダウンを奪った。
ここまではよかったが、すでにキレている前田は、その後も制裁を加えるように、執拗に顔面に膝蹴りを入れ続け、何度もダウンさせた。
田村は立ち上がる度に頭をつかまれ膝蹴りをもらい続け、最後はレフリーストップ。
玉砕した田村は、その後、右眼窩底骨折であることがわかり、長期欠場を余儀なくされた。
(田村は、1年1ヵ月後((1990年12月1日)に復帰戦を行ったが、直後、第2次UWFが崩壊したため、それがラストマッチ。
UWF での試合数はわずか6で終わった)
ある意味、真剣勝負、しかしある意味、大人気のない、後味が悪い試合だった。
そしてメインでは、高田延彦が藤原喜明に初勝利した。
第1次UWFからエースを張り続けてきた前田に、高田や船木が迫りつつあった。
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1989年11月29日、再旗揚げから1年半、第2次UWFがついに東京ドームに進出。
大会名は「U-COSMOS」
メガネスーパーがメインスポンサーとなって開催されたため、大会の正式名称は「メガネスーパーPRESENTS U-COSMOS」

アリーナSS席 - 30000円
アリーナS席 - 20000円
アリーナA席 - 10000円
スタンドA席 - 7000円
スタンドB席 - 5000円
スタンドC席 - 3000円

という価格で6万人がドームに入ったのに加え、全国9個所のライブビューイングで1万人が観戦。
またTBSが「UWFスペシャル 新格闘技伝説 異種格闘技・世界決戦」という特番を打ち、第2次UWF初の地上波放送が実現した。
このUWF史上最大のイベントは、
「男子、志を立てて郷関を出ず、学もし成らずんば死すとも帰らず、(骨を埋ずむるに、あにただ墳墓の地のみならんや、)人間いたるところ青山あり」
という幕末期の僧侶、西郷隆盛と錦江湾に身を投げ自分だけが死んだ月照が15歳で出家するときに残した言葉を引用した前田日明の挨拶でスタート。

新生UWF 新格闘技伝説 東京ドーム

中野龍雄 vs 宮戸優光

宮戸の握手を拒否した中野が感情ムキ出しのルールあるケンカファイトで、7分9秒、 裸絞めで勝利。
2人は犬猿の仲といわれ、2020年に中野巽耀が「私説UWF中野巽耀」を出版すると、宮戸は名誉毀損で告訴した。

安生洋二 vs チャンプア・ゲッソンリット

タイで400年以上の歴史を持つ最強の立ち技格闘技、ムエタイ。
チャンプア・ゲッソンリットは体重75kgというムエタイでは稀な大型選手で、ニックネームは「超像」、そして「黄金の左ミドル」
アメリカのラスベガスでマーシャルアーツの選手の脚を蹴り折り、オランダの伝説的キックボクサー、ロブ・カーマンをKOしたことがある選手。
98kgあった安生洋二は、「体重差10kg以内」というチャンプア側からの要求で85kgに減量。
チャンプアの鉄球のようなパンチと太い鞭のようなキックに被弾しながら、フルラウンド戦い抜いてドロー。

鈴木みのる vs 「8年間無敗」モーリス・スミス

鈴木みのるは、前腕を骨折した船木誠勝の代役で、「8年間無敗」の伝説のキックボクサー、WKA世界ヘビー級の現役チャンピオン、モーリス・スミスと対戦。
鈴木は、2R、右ミドルを食らってダウンし、カウント9でどうにか立ち上がり、3R、3度ダウン、4R 1分29秒、右ストレートパンチをもらい、うめき声を上げながらロープをつかんで立とうとしたが10カウントを数えられ、KO負けし、試合後は大号泣。
鈴木は
「スミスの強さにビビって大観衆の前で泣いて自らリングに寝転がった」
というが、後にパンクラスでスミスと2度対戦。
1993年11月の2戦目は再び敗れ、1994年5月の3戦目でUWFから5年越しのリベンジを果たした。

藤原喜明 vs 「バトルサイボーグ」ディック・フライ

藤原喜明は、オランダのキックボクシング・スーパーヘビー級1位、後にリングスでも活躍するディック・フライと対戦。
一般的なキックボクサーではなくボディビルダーのような肉体を持つフライに対し、小柄な藤原は、その蹴り足をつかんで倒し、自分は立ったまま体を反らして、立ちアキレス腱を極めてタップさせ、立ち関節技などみたことがない人が多く、度肝を抜いた。

山崎一夫 vs クリス・ドールマン

元サンボ世界王者のクリス・ドールマンにジャケット・マッチを要求され、道着を着た山崎一夫 は間合いを取ってローキックを放つが、ドールマンは蹴りをキャッチして変則の投げで寝技に持ち込み、3R 48秒、腕ひしぎ逆十字で勝利。

高田延彦 vs 「金メダリスト」デュアン・カズラスキー

デュアン・カズラスキーはロサンゼルスオリンピック、グレコローマンスタイル100kg級金メダリスト。
しかし試合開始数秒後、高田のローキック2発からのハイキックでダウン。
その後、投げと関節技で奮闘するも、10分55秒、高田の腕ひしぎ十字固めに敗れた。

前田日明 vs 「オランダの柔道王」ウィリー・ウィルヘルム

ウィリー・ウィルヘルムは、柔道オランダ選手権で3度優勝、ヨーロッパ選手権で1度優勝、世界選手権2位。
ウィルヘルムは前に出て間合いを詰めて組みつき、投げと寝技で圧倒したが、ローキックなど打撃をもらうと後退してしまい、最後はカニバサミで倒され、2R1分28秒、膝十字固めでギブアップ。
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  • UWF信者 2023/1/7 19:06

    神社長は詫び状を持って行ってない!書いてもない!とご自身のブログで公言しておりますよ。また、鈴木専務の本でも私は詫び状なんか前田選手に持って行ってない!と、こちらも公言してますので、訂正した方がよろしいかと。

    それと神社長と鈴木専務の給料も100万だそうです。鈴木専務の本に書かれてますよ。

    つまり、あれもこれも前田選手の作り上げた話だったようですね。それを信じて嘘を書いてしまうと名誉毀損罪になりますからブログ主さんも要注意ですね。

    UWF信者 2023/1/7 18:50

    神社長は詫び状を持って行ってない!書いてもない!とご自身のブログで公言しておりますよ。また、鈴木専務の本でも私は詫び状なんか前田選手に持って行ってない!と、こちらも公言してますので、訂正した方がよろしいかと。
    それと神社長と鈴木専務の給料も100万だそうです。鈴木専務の本に書かれてますよ。
    つまり、あれもこれも前田選手の作り上げた話だったようですね。それを信じて嘘を書いてしまうと名誉毀損罪になりますからブログ主さんも要注意ですね。

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