1994年7月、小室哲哉プロデュースによる篠原涼子 with t.komuro名義でシングル「恋しさと せつなさと 心強さと」(長編アニメーション映画『ストリートファイターII MOVIE』主題歌)を発売。
2年越しのロングヒットで売上200万枚を超える大ヒットとなった。1994年の『第36回日本レコード大賞』では優秀賞を受賞。『第45回NHK紅白歌合戦』に出場した。
2001年頃から本格的に女優に移行し、徐々に人気が上昇
via ib1.huluim.com
ドラマ『ハケンの品格』のイメージなどから、2007年・2008年に明治安田生命が新入社員を対象に調査した「理想の上司」の女性第1位に選ばれた。
すばらしい!としか言いようがない。ポジショニングの教科書です。
小倉優子
小倉優子 ロリータフェイスが売りのグラドル
高校時代の2001年(平成13年)頃に、芸能事務所アヴィラ(旧・アバンギャルド)にスカウトされ、男性誌グラビアで芸能界デビュー。その後しばらく撮影会モデルなどの下積みをこなしながら、グラビアの仕事を続ける。
2002年頃から「こりん星」から来たというメルヘンキャラ・不思議系キャラで芸能界に登場
コリン星のお姫様の「ゆうこりん」
2002年(平成14年)、日テレジェニック2002に選出される。この頃からロリータフェイスと「こりん星のりんごももか姫」という自己創作のお姫様キャラクターで徐々に注目を集めるようになり、発売アイテムが軒並み好セールスを記録。それと同時に関西地方のテレビやラジオなどの仕事が増え始める。
via www.sanspo.com
2002年頃から「こりん星」から来たというメルヘンキャラで芸能界に登場した小倉。語尾に「りんこ」をつけるなど、インパクトは大で、多くのバラエティー番組に引っ張りだこになった。だが、この不思議系キャラは、小倉の素とはまったく違うもの。芸能活動と私生活のギャップにストレスと罪悪感を覚え、毎晩飲み歩いていたことを番組内で明かした。本人曰く、
「23歳くらいから限界だった」
それでも所属事務所は、金になる「こりん星」キャラをやめさせない。「やめたい」と小倉がお願いしても、「まだいける」の一点張り。「こりん星」を全面に出されて、グッズ販売や連載までスタートした。とはいえ、そもそも「こりん星」自体が小倉の発想ではないため、なかなかグッズのイラストや連載が進まなくなる。
本人は大変辛かったと思いますが、「こりん星」キャラ戦略は大変独創的で、当時としては非常に成功した戦略でした。キャラ戦略というニッチマーケティング手法が以後、増えたと思います。AKBもそうでしょう。
via sen59.jp
「芸能人は商品なんです。テレビやイベントに出られなければ、在庫が余っているのと同じなんです。仕事がない時には、事務所で経理や電話対応ができる芸能人なんていませんし...サラリーマンやOLとは違うので、会社にいてもらっては困る。
だから、事務所はどうにかして在庫を売ろうとする。それが、演技なのか、歌なのか、バラエティーなのか、キャラなのか。小倉さんは、キャラで売りださないと厳しいということだったのではないでしょうか?」(芸能関係者)
via prtimes.jp
篠原ともえ
1990年代末期に個性的なファッションと強烈なキャラクターで、「シノラー」ブームを巻き起こした
1996年、フジテレビ『HEY!HEY!HEY!』でのダウンタウンへの機転の利いた傍若無人ぶりやレギュラー出演の『LOVE LOVE あいしてる』ゲストの楽屋襲撃コーナー「篠原ともえのプリプリプリティ!!」で人懐こいハイテンションなキャラクターで人気を得ると、数々のバラエティ番組でひっぱりだこになる。
バブルが崩壊し、この頃の日本は、完全に方向感を見失っていた。確かにとびっきり元気なネタが必要だったのだろう。