陽気なイメージでしたね「チンドン屋」
チンドン屋「クレイジーキャッツ映画」
「ば~か、あ~ほ、チンドン屋~、お前の母ちゃんで~べ~そ~」
もちろん、いまとなっては色々と難しい言葉かと思いますが、当時は本気で蔑称しているのでなく、囃子言葉として使っていたはずです。
さて、そんな言葉に出てきた「チンドン屋」。
駅前の商店街や、あるいはパチンコ屋さんの前など、なんとなく景気のいいところで目にした方も多いのではないでしょうか。
「チンドン屋」という呼称の語源
「チンドン屋」の呼称が普及しはじめたのは、大正末から昭和初期と考えられ、確認できる用例は、1930年(昭和5年)頃からあるそうです。当初は、単独で華美な衣装を身につけ、口上を行うことに対して「チンドン屋」の呼称が用いられており、必ずしも三味線、管楽器の演奏を伴わない形態であったようです。
チンドン太鼓と呼ばれる楽器を鳴らし、物珍しい格好で衆目を集め、その地域の商品や店舗の宣伝を行う「チンドン屋」
楽士は、クラリネット、サックスなどの管楽器で旋律を演奏する専門職で、特定の親方と雇用関係を結ばず、フリーで活動するケースもあります。
旗持は、幟を持ち、先頭を歩く役割で、「ビラまき」は、チラシ、ティッシュなどを配布し、「背負いビラ」と呼ばれる店名やサービス内容が書かれたポスターのようなものを各人が背中に背負い、あるいはチンドン太鼓の前に取りつけます。
チンドン屋
チンドン屋の歴史
大正初め頃に囃子隊を結成して、寄席などで演奏しつつ、宣伝業を手掛ける者が現れ、 1917年には「一人で太鼓と鐘を叩いて背に広告の旗を立てて囃し立てて居る広告や」があったという記録がある。 ひとりで複数の打楽器を演奏するためにチンドン太鼓が考案されたのは大正中期だとされる。
大正期のチンドン屋は口上が主体
やや遅れて、衰退に向かったジンタの管楽器奏者を加えた形態が大正末頃から増え始め、トーキーの登場を機に失職した映画館楽士が流入、さらには管楽器入り編成が定着。
戦後復興期の流行と高度経済成長期の衰退
関東ではパチンコ店からの仕事が多く、1950年にはチンドン屋人口は2500人に及んだそうです。
街を廻りながら行う宣伝を「街廻り」、移動せず店頭で行う宣伝を「居つき」といいます。