長渕剛を代表する名曲「巡恋歌」(1978年10月)
1978年に発売された「巡恋歌」。
長渕剛のファンなら、14年後に発表された「巡恋歌'92」との歌唱法の違い、そこに至るまであるいはそこからも含めて彼が己の求めるスタイルを模索し続ける姿を見続けてきたに違いない。
ただ78年の「巡恋歌」発表時、すでに長渕剛の純情が激烈な情熱を伴った姿勢となっていたことを、改めて確認しておくのもよいかもしれない。
長渕剛のファンなら、14年後に発表された「巡恋歌'92」との歌唱法の違い、そこに至るまであるいはそこからも含めて彼が己の求めるスタイルを模索し続ける姿を見続けてきたに違いない。
ただ78年の「巡恋歌」発表時、すでに長渕剛の純情が激烈な情熱を伴った姿勢となっていたことを、改めて確認しておくのもよいかもしれない。
via i.ytimg.com
寂しさゆえに 愛が芽ばえ
お互いを知って 愛が終わる
続く”別れは涙で飾るもの”も含め、直球で男女の恋愛を綴る「巡恋歌」。
一般的には女性目線での失恋ソングとでも分類されるのかもしれないが、実は男目線で綴った歌詞ではなかったのかと、そんな気持ちで聴いた人も多いだろう。
一般的には女性目線での失恋ソングとでも分類されるのかもしれないが、実は男目線で綴った歌詞ではなかったのかと、そんな気持ちで聴いた人も多いだろう。
長渕剛 巡恋歌
via www.youtube.com
女性のような高音、詞を丁寧に辿るような歌い方。
この歌への想いが伝わるような長渕剛の姿である。
前年のデビューから1年半、本人はこの「巡恋歌」を「本格デビュー」と位置付ける。
この歌への想いが伝わるような長渕剛の姿である。
前年のデビューから1年半、本人はこの「巡恋歌」を「本格デビュー」と位置付ける。
「雨の嵐山」(1977年2月)でデビュー後、1年6か月に渡る葛藤
筋を通すために出場したポプコン九州大会で優勝、デビューへ
当時のミュージシャンの登竜門「ヤマハポピュラーソングコンテスト(通称ポプコン)」に対して批判的だった長渕剛。
彼の想いは「コンテストは一曲か二曲で決められてしまう。フォークとは一曲、二曲で決められるものではない」という想いだった。
しかし、プロのミュージシャンを目指して憧れのフォーライフ・レコード社に自身の楽曲を送ろうと利用した福岡のスタジオが縁で、長渕は筋を通すためにポプコン出場。
ポプコンでは「雨の嵐山」で九州大会グランプリ、つま恋本選会ではレコード会社協賛社賞を4社から受け、レコードデビューを果たす事に。
彼の想いは「コンテストは一曲か二曲で決められてしまう。フォークとは一曲、二曲で決められるものではない」という想いだった。
しかし、プロのミュージシャンを目指して憧れのフォーライフ・レコード社に自身の楽曲を送ろうと利用した福岡のスタジオが縁で、長渕は筋を通すためにポプコン出場。
ポプコンでは「雨の嵐山」で九州大会グランプリ、つま恋本選会ではレコード会社協賛社賞を4社から受け、レコードデビューを果たす事に。
長渕 剛 わたし春を待ってます
via www.youtube.com
この曲に関しては、レコード会社主導で全てが進められ、長渕がスタジオを訪れた時はアレンジも含めてほぼ全てのレコーディングが終了しており、長渕は歌入れを行っただけである。このアレンジに関して、長渕は違和感を覚えていたが、初めてレコードを出せる喜びの方が大きく、何も言わなかった。その事が後に歌謡曲路線で売り出される結果となってしまったと述懐している。
歌手としての活動が始まったもののレコード会社からはフォークシンガーと認めてもらえず、「ナガブチ・ゴウ」の名で演歌・歌謡曲の路線で売り出されてしまう長渕剛。
レコード店周りやデパートの屋上でアイドルの前座などを務める活動に疑問を抱き、なんと全てを白紙に戻して九州へと引き返す事になる。
レコーディング時点で、恩義ある人への義理立てて出場したポプコン。
本意でなかった楽曲で進められたデビュー、周囲の決めた路線。そんな流れに抗うようにして九州へ引き返した長渕剛。
レコード店周りやデパートの屋上でアイドルの前座などを務める活動に疑問を抱き、なんと全てを白紙に戻して九州へと引き返す事になる。
レコーディング時点で、恩義ある人への義理立てて出場したポプコン。
本意でなかった楽曲で進められたデビュー、周囲の決めた路線。そんな流れに抗うようにして九州へ引き返した長渕剛。
再びプロのミュージシャンを目指して創り上げた「巡恋歌」
再びプロのミュージシャンを目指した長渕は、同じ過ちを繰り返さぬように、再び憧れのフォーライフ・レコード社に「巡恋歌」の含まれたデモテープを送るも採用されず。
その後も数々のレコード会社に送るものの相手にされず、最後に「ポプコン」主催のヤマハ音楽振興会へと送った。
そのヤマハから再度のポプコン出場を提案された長渕は、見事九州大会で優勝、つま恋本選会でも入賞してヤマハ側から絶賛され、ついに再デビューを勝ち取ったのである。
その後も数々のレコード会社に送るものの相手にされず、最後に「ポプコン」主催のヤマハ音楽振興会へと送った。
そのヤマハから再度のポプコン出場を提案された長渕は、見事九州大会で優勝、つま恋本選会でも入賞してヤマハ側から絶賛され、ついに再デビューを勝ち取ったのである。
ギター一本でのプロモーションを志願
長渕は前作「雨の嵐山」で喫した挫折を忘れる事のないよう、所属事務所に対し「全国をギターケースを持ってコンサート活動で回りたい」と訴えたが、レコード会社や所属事務所の上層部としてはレコードのプロモーションの事だけを考えており、長渕の考えは相手にされていなかった。その後、マネージャーであった糟谷銑司の計らいにより、長渕の希望は叶えられる事となった。
また、長渕はこの曲を全国区にするために、ライブでは必ず演奏し、プロモーションに頼らずに知名度を高めようとしていた。
後に己の意思で歌唱法、スタイルを変えていった長渕剛。
しかし原風景にある「巡恋歌」は、どんなスタイルになってもライブでは必ず演奏する。
ライブではオリジナルと違ってギターとハーモニカだけで歌う。長渕の拘りの象徴のような楽曲である。
しかし原風景にある「巡恋歌」は、どんなスタイルになってもライブでは必ず演奏する。
ライブではオリジナルと違ってギターとハーモニカだけで歌う。長渕の拘りの象徴のような楽曲である。
全作詞・作曲: 長渕剛、全編曲: 鈴木茂。
1.「巡恋歌」(3:30)
2.「帰り道」(3:45)