ドン・ブレイザー(阪神タイガース:1979 - 1980途、南海ホークス:1981 - 1982)
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1979年に阪神タイガースの監督に就任。アメリカから野球を頭脳プレーで展開する「考える野球(シンキング・ベースボール)」の仕組を取り入れた采配が期待された。就任1年目の同年は最終的に4位に終わったが、前年の1978年の最下位に比べれば持ち直し、夏のロード明けまで首位争いに加わり、前年より20勝勝ち星を増やした。前年オフにブレイザーが敢行した西武ライオンズとの大型トレード(阪神の田淵幸一、古沢憲司と西武[6]の真弓明信、若菜嘉晴らを交換した)、小林繁の獲得などで前年に比べて戦力がアップされたこともあったがブレイザーの手腕によるものも大きかった。当時遊撃手の真弓に「つま先は常にホーム方向へ」と指示し、遊撃の守備位置や動きで投手の球種を悟らせない「考える守備」を提唱した。
1980年は当時新人の岡田彰布の起用法を巡ってフロントと軋轢が生じた。ブレイザーは、新人はまず二軍で養成すべしと考えていたので、岡田を起用したがらなかった。岡田はブレイザーとの初対面で通訳兼任コーチの市原稔を介して「いくら力のあるルーキーでも、メジャーリーグでは最初からいきなり試合起用することはない」と告げられ、「そんなの関係ないやろう」という反骨心が芽生えたと後に著書に記している[7]。岡田自身は起用がないことについて表立ってコメントすることはなかったが、大物新人スラッガーをいち早く一軍で活躍させたい球団社長の小津正次郎を中心とするフロント、ファンやマスコミが許さなかったためと言われる。ブレイザーがヤクルトスワローズから獲得したデーブ・ヒルトンを成績・特に打撃が不振にもかかわらず守備面を評価して起用し続けたこともそうした声に拍車をかけることになった。結局、ファンから自宅にカミソリ入りの手紙を送りつけられ、夫人が「こんな野蛮な国はイヤ」と帰国を懇請したこと、また球団フロントがヒルトンを退団(これについてはブレイザーも了承していたが[8])させた後、ブルース・ボウクレアを獲得したことを「フロントの現場への介入」と見たこともあって、シーズン途中の5月14日で退任。ブレイザーの退任後はヘッド兼打撃コーチの中西太が後任の監督となったが、5位に終わっている。
阪神退団後は複数球団から誘いがあり、1981年に古巣・南海の監督に就任した[1]。一年目は5位、二年目は最下位と低迷し心臓病に痛風が重なり辞任。
2015年シーズン現在、阪神タイガースの外国人で監督を務めたものはブレイザーただ一人である。
ジョー・ルーツ(広島東洋カープ:1975 - 1975途)
「集団は確固たる指導方針を持った強烈なリーダーによって変わる」ということを身を持って示し「球界の革命児」と呼ばれた。前年まで3年連続最下位だったチームの帽子の色を、それまでの紺色から燃える闘志を表す赤色に変えた。広島の代名詞でもある「赤ヘル」の生みの親である。なお、当初はアンダーシャツやストッキングも赤に変更する予定であったが、予算の関係で見送られそれが実現するのは1977年からとなった。全力を出し切ったハッスルプレーを求め、消極的なプレーには容赦しなかった。一方で選手を集めた最初のミーティングで「君達一人一人の選手には、勝つことによって広島という地域社会を活性化させる社会的使命がある」と力説。その大局的な考え方は阿南準郎、木下強三、龍憲一、藤井弘といった各コーチや山本一義ら選手達に大きな影響を与えた。
その他、日系2世などの外国人監督
杉田屋守(黒鷲軍:1941)
本田親喜(名古屋軍:1941 - 1942)
若林忠志(阪神軍=大阪タイガース:1942 - 1944・1947 - 1949、毎日オリオンズ:1953)
田中義雄(大阪タイガース:1958 - 1959)
与那嶺要(中日ドラゴンズ:1972 - 1977)
1979年(阪神) 4位
1980年(阪神) 5位
1981年(南海) 4位
1982年(南海) 6位