【吉村禎章選手】交通事故レベルの激突事故から奇跡の復帰を果たした不屈の打者。
2016年11月25日 更新

【吉村禎章選手】交通事故レベルの激突事故から奇跡の復帰を果たした不屈の打者。

1988年7月6日。札幌円山球場に詰め掛けた野球ファンは後に「交通事故レベルの激突事故」と呼ばれた栄村選手と吉村選手の激突事故を目撃する。この様を見た多くの人が思った事だろう「吉村は終わった」と。だがこれが奇跡の始まりだった…。

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●吉村選手の球歴

PL学園時代、1981年の第53回選抜高等学校野球大会にて優勝を経験します。
(これがPL学園が春のセンバツで初めて優勝した大会でした)
優勝決定で喜ぶPLの選手達

優勝決定で喜ぶPLの選手達

9回逆転サヨナラ(2対1)で優勝が決定。
吉村選手は主将を務めていました。
1982年オフに行われたドラフト会議で巨人から3位指名を受けて巨人に入団。背番号は55。入団2年目には早くも84試合に出場。同年代の駒田徳広選手(50番)、槙原寛己選手(54番)とともに、背番号にちなんで「50番トリオ」と呼ばれ、俊足巧打の外野手として若くから頭角を現します。1984年にはレギュラーを獲得。1986年、1987年と2年連続でベストナインに選出。原辰則選手、クロマティ選手らとクリーンナップを形成。吉村選手は巨人を背負って立つ存在として、順調な野球人生を歩んでいました。

●運命の日、1988年7月6日。対中日戦

毎年恒例となっていた巨人の北海道遠征。札幌円山球場での中日戦が吉村選手の運命の日となります。この日の4回、3番打者の吉村選手は通算第100号となる本塁打を放ちます。その後4番の原辰則選手、5番呂明賜と共にクリーンナップ三連発を記録するなど巨人ペースで試合は展開します。

吉村 原辰德 呂明賜選手の三者連続本塁打

「あの事故」の試合、実は吉村、原、呂選手の三者連続本塁打が生まれていたのです。
8回表からこの年初めて一軍に昇格し、代走、守備固めとして貴重な役割を果たしていた栄村選手がセンターの守備につきます。
※7回に打順が回っていれば吉村選手も8回は「お役ご免」となっていたと言われています。
中尾孝義選手が打ったフライを捕球した際、栄村選手と激突した「あの事故」が起こるのです。
捕球体勢に入った吉村選手に…

捕球体勢に入った吉村選手に…

激突する両選手

激突する両選手

動かない…

動かない…

●奇跡の復活

その怪我の内容は左膝の4本の靱帯のうち3本が完全に断裂し、さらに神経まで損傷するという大怪我でした。当時の日本のスポーツ医学では復帰などとても不可能と思われ、吉村選手は渡米。当時スポーツ医学の権威であるフランク・ジョーブ博士の執刀を受けてリハビリを開始。
そして、吉村選手は、1989年9月2日の対ヤクルト戦で復帰するのです。
(相手投手は川崎投手、結果はセカンドゴロ)
吉村選手が登場すると、割れんばかりの大歓声が東京ドームにおこりました。

吉村禎章 奇跡の復活

吉村選手の登場は4分20秒辺りからです。
その翌年はシーズン当初から代打の切り札として活躍。1990年9月8日の対ヤクルト戦で、リーグ優勝を決める「優勝決定本塁打」を打つのです。(奇しくもこの時マウンドにいたのは川崎投手でした)

吉村選手のサヨナラ本塁打でリーグ優勝決定

吉村選手の登場は13分辺りからです。

●引退、そして今

その後も、吉村選手は代打の切り札として活躍。1998年には長嶋茂雄監督から巨人軍の第16代キャプテンにも指名されました。(この年限りで現役を引退)
引退後は、野球解説者として活躍。現場にも復帰し、巨人の一軍打撃コーチ(2002年、2003年、2009~2011年)二軍監督(2006年~2008年)を務めます。
そして、2014年の9月にはあの激突事故を取り上げたスポーツドキュメント番組が放送されました。

『石橋貴明のスポーツ伝説・・・光と影』スポットCMより

この激突事故についてのドキュメント番組が放送。
大きな反響を生みました。
番組中、栄村さんについての思いを語る吉村さん

番組中、栄村さんについての思いを語る吉村さん

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