中村俊輔のサッカーノート2 伝家の宝刀、必殺のフリーキックで赤い悪魔、マンU撃破!!!
2020年9月25日 更新

中村俊輔のサッカーノート2 伝家の宝刀、必殺のフリーキックで赤い悪魔、マンU撃破!!!

フィリップ・トルシエ監督に選ばれずワールドカップ日韓大会に出場できなかった悔しさをバネに海外挑戦を開始。イタリアとイギリスでチームの中心選手となり活躍。ウエイン・ルーニーやクリスチアーノ・ロナウドを配したマンチェスターユナイテッドをフリーキックで撃破した。

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ジーコジャパン 10番

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2002年10月14日、2006年のワールドカップドイツ大会出場に向けてジーコが監督となった日本代表、ジーコジャパンの初戦、ジャマイカ戦に出場するため帰国。
3ヵ月ぶりのみそ汁と納豆を味わい、練習場に向かった。
そしてジーコ監督に会って、直接、背番号10のユニフォームを渡された。
「ナカムラは1発のキック、パスで流れを引き寄せることができる。
素晴らしい才能の持ち主」
とジーコは中村俊輔を高評価。
「代表に選ばれるのは光栄なことだし、選ばれるようにがんばりたい」
と中村俊輔も素直に喜び、11月のアルゼンチン戦にも出場。
こうして2002夏~2005年夏まで、イタリアでプレーしつつジーコジャパンでも多くの試合に出ることになったが、イタリア最南端から日本まで飛行機だけでも20時間。
1日がかりの移動はコンディションに影響が出ることもあった。
また日本代表メンバーとは普段一緒に練習していないので、連係プレーなどを高めるのは難しかった。
しかも中村俊輔には他の選手以上のものが要求された。
 (2220916)

レッジーナでも日本代表とは違う難しさがあった。
セリアAのリーグ戦では、ACミランやユベントス、インテルといった世界のトップ選手をそろえた
強豪クラブとの対戦があった。
中村俊輔は対戦を楽しみにしたが、さすがに力の差は大きく、次の対戦では・・・次の対戦では・・とモチベーションを維持するのは口でいうほど簡単ではなかった。
そしてレッジーナにはセリエA残留争いという、これまた難しい問題もあった。
セリアA下位3クラブは、次シーズンからはセリエBに落ちる。
それは最大級の屈辱で、その可能性が高く
「落ちてなるものか」
とピリピリしているチームの10番を背負う日本人のプレッシャーは並大抵ではなかった。
「残留争いという地味な戦いがあった。
プレーは激しいし、ボールはつながらないし、なかなか点も獲れない。
でもそういうときに粘っていると必ず伸びる。
みえないときに人間は1番伸びる」
レッジーナのホームスタジアムは、オレステ・グラニッロで、サポーターは熱狂的だった。
チームが3連敗した後、外出した中村俊輔は
「なに負けてるんだ」
とサポーターに小突かれ、スーパーマーケットでは詰め寄られた。
車のタイヤを1個とられた選手もいた。
4連敗したときは
「お前らやる気あるのか」
と練習中のグラウンドに乱入していたサポーターもいた。
その代わり、点を決めればヒーローだった。
中村俊輔は、華麗なプレーと卓越したテクニック、そして芸術的なフリーキックで目の肥えたイタリア人を魅了した。
「ナカムラはバッジョのようなもので、FWもできるし、MFもできる。
DFを抜くこともパスも出せるんだ」
「創造性があって、相手をかわす能力を持った選手だ」

中村俊輔のスーパーフリーキック 名手バルデス撃沈 フランス戦 コンフェデレーションズカップ 2003年

2003年、サッカーノートに書いた目標は

短期目標
「肉体改造、フィジカルアップ」
「代表の数少ない試合で必ずいいプレー」
「結果を出し必要と思わせる選手になる」
「セリAでいいプレーをする」
「レッジーナで1番の選手、中心になる」
「10得点とる」
中期目標
「いいクラブに移籍する」
「セリAの中でもトップクラスの選手になる」
長期目標
「人から尊敬され愛されるプレーヤーになる」

だった。
2003年3月、日本代表 vs ウルグアイ戦に出場。
6月、日本代表 vs パラグアイ戦に出場。
ジーコジャパンは中田英寿と中村俊輔の2枚看板で、ピッチに中田英寿がいるときは中村俊輔は左サイドハーフ、中田英寿がいないときはトップ下がポジションだった。
コンフェデレーションズカップで日本代表はグループリーグで敗退したが、中村俊輔は、2試合出場3得点でブロンズシュー(3番目の大会優秀選手)を受賞。
2年前に5対0で敗れ「サンドニの悪夢」といわれたフランス戦では、名ゴールキーパー、ファビアン・バルテズも届かないシュートが右ポストを叩き、そのままゴールに吸い込まれる圧巻のフリーキックを決めた。
中村俊輔はよく中田英寿と比較された。
「(メディアでは)ヒデさんとも比較されたけど、どうこうっていうのはなかった。
ジーコのときのヒデさんは、特別な存在。
当時のローマは、今でいうバルサとかレアルみたいな感じで、そこでプレーできる力と経験を持つ選手は、日本代表には他にいなかった。
多分、代表でプレーするときに感じる、俺らへの物足りなさやストレスはすごかったと思う。
ヒデさんは徐々に俺たちのレベルに寄ってきてくれたけど、ヒデさんが本来のヒデさんでいられるレベルの選手が代表にはほとんどいなかった。
しかも本当ならヒデさんがトップ下をやるべきなのに、俺みたいなちょこまかした選手がトップ下をやって、ヒデさんはボランチをやった。
同じレベルではなくて、本当に申し訳ないって思っていた」
と中村俊輔は中田英寿に追いつくべく、自らのレベルを上げ、安定したプレーをすることに集中した
ジーコ監督にとって、中村俊輔と中田英寿は別格で両者を生かすためには、中村俊輔を前に出して攻撃に専念させ中田英寿をボランチへ配するしか方法がなかった。
「フィジカルの強弱などでも判断する監督なら、俺をサブにして、ヒデさんをトップ下に置いたと思う。
周囲からは『ジーコの息子』とか『ジーコに気に入られた』とかいわれたけど、そういう感覚はなかった。
ただ代表に呼ばれたら、どんな試合にも行った。
ジーコに対してというよりも日本代表に対する忠誠心というか気持ちをジーコに感じてもらえていたんだと思う。
俺、常に代表が1番だから」
8月、日本代表 vs ナイジェリア戦に出場。
9月、日本代表 vs セネガル戦に出場。
10月、日本代表 vs チュニジア戦に出場。
日本代表 vs ルーマニア戦に出場。
2003年シーズンの主な成績は

セリエA32試合4得点
イタリアカップ4試合1得点

だった。

開催国・中国を破りアジアカップ連覇

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2004年、サッカーノートに書いた目標は

短期目標
「レッジーナでスタメンをとり返す」
「自分の納得するプレーをする。
自分にしかでき兄プレーをする」
「期待を裏切っている分、サッカーでグラウンドでとり返す」
「流れの中で5点」
「フィジカルアップ、シュートの意識、タフなメンタル、ボール際の強さ」
中期目標
「自分に限界をつくらず上へ上へと目指す」
「上のクラブへ移籍する」
「いいクラブにいって10番つけてチームの中心になる」
「セリエAの中でトップクラスのプレーヤーになる」
「代表で1番うまい選手、頼りになるプレーヤーになる」
長期目標
「尊敬される選手、人間になる」

だった。
2004年2月、ワールドカップ予選開始。
日本代表 vs イラク戦に出場。
3月、ワールドカップアジア1次予選に出場。
5月、日本代表 vs アイスランド戦に出場。
6月、日本代表 vs イングランド戦に出場。
ワールドカップアジア1次予選に出場。
7月、日本代表 vs スロバキア戦に出場。、
日本代表 vs セルビアモンテグロ戦に出場。
8月、アジアカップに参加。
第1戦、オマーン戦。
2月に始まったワールドカップ予選でも同グループリーグに入っている国で最大のライバルだった。
オマーンの速いプレスに日本はボールをキープすることができずピンチが続いた。
前半34分、少ないチャンスをモノにするしかない日本は右サイドからすばやいリスタート。
左の遠藤保仁がパスを受け三都主アレサンドロへ落とし、三都主アレサンドロは中央へパス。
これは通らなかったが相手がクリアミス。
中村俊輔がすかさずボールを拾ってシュート。
この点が決勝点となった。
第2戦、タイ戦でも中村俊輔はゴールを決めた。
決勝戦、中国戦ではスタジアムは反日感情が吹き荒れ、君が代はブーイングのアレンジがついた。
完全アウェイムードの中、ジーコジャパンはピッチに立った。
中村俊輔は日本の全3得点に絡む大活躍。
日本代表は大会2連覇。
中村俊輔は、全6試合出場2得点。
ベストイレブンおよび大会MVPに選ばれた。
そしてイタリアへ戻ってセリアAの3シーズン目をスタートさせた。
10月、ワールドカップアジア1次予選に出場。
2004年シーズンの主な成績は

セリエA16試合2得点
イタリアカップ2試合出場

だった。
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イタリアのリーグ戦と日本代表の招聘も受け続け、恥骨炎や膝の負傷などケガも繰り返した。
そのためレッジーナでの出場試合数は激減した。
「2004年はイタリアにいた3年間の中で最もつらい時期だった。
レッジョ・ディ・カラブリアには娯楽施設もほとんどなく、海で遊ぶくらいしか余暇の過ごし方がなかったので、家でノートに向き合う時間も多かった。
孤独と戦い、自分の心に耳を傾けていた」

伝統のビッグクラブ:セルティック

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2005年、サッカーノートに書いた目標は

短期目標
「セリエA残留」
「ワールドカップ予選突破」
中期目標
「スペインでいいプレーをする」
「代表で中心になる」
長期目標
「尊敬されるプレーヤーになる」

だった。
「スペインでいいプレーをする」
とスペインリーグへ移籍したいという意思を表明した。
2005年2月、ワールドカップアジア最終予選に出場。
5月、セリエAのシーズンが終わり、中村俊輔は33試合2得点。
(これがイタリア最終シーズンの成績となった)
6月、ワールドカップアジア最終予選に出場し、ジーコジャパンはワールドカップ本大会出場を決める。
コンフェデレーションズカップで日本代表はグループリーグで敗退したが、中村俊輔がブラジル戦でみせたロングシュートとフリーキックは世界中の人々を驚かせた。
「ワールドカップで世界をアッといわせたい」
というジーコ監督にとって理想的な選手だった。
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7月、スペインのチームからオファーが来たが条件面で折り合わず、中村俊輔はスコットランド・プレミアリーグのセルティックに移籍。
背番号は「25」だった。
イギリスの正式名称は、「The United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland(グレートブリテン及び北アイルランド連合王国)」
略して「UK」
イギリスは
・イングランド
・ウェールズ
・スコットランド
・北アイルランド
という4つの国の連合国である。
スコットランドはグレートブリテン島の北部約1/3を占め、人口は約509万人。
首都はエディンバラだが、セルティックのホームであるクラスコーはスコットランド最大の都市で、1960年代に造船業で栄え100万人以上が、現在でも60万人以上が住んでいる。
歴史的な建造物が多くあり、年間300万人の観光客が訪れる。
グラスコーダ大学は、有名な学者を多数誕生させた。
14世紀、ジェームズ・ワットは蒸気機関を発明し産業革命を飛躍的に進歩させ、「W(ワット)」はエネルギーの単位になった。
19世紀、ウィリアム・ケルビンは絶対零度(-273.15度)を発見した。
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科学だけでなくサッカーでも1982年に史上初の国際試合が行われた。
そのときスコットランド vs イングランドは0対0で引き分けた。
ホームスタジアム:セルティックパークは、1888年に
「収益は貧しいアイルランド移民のために」
とアイルランド人の牧師:ブラザー・ウォルフリッドによって設立された。
アイルランド出身の人やアイルランドにルーツを持つ人々は自然とセルティックを応援するようになり、以来、120年以上、現在に至るまで、熱狂的なサポーターと応援、クラブの理念は崩れることなく続いている。
セルティックは、1967年にイギリスのクラブで初めて欧州チャンピオンズカップ(欧州チャンピオンズリーグ(UCL)の前身)で優勝。
2003年にはUEFAカップ(ヨーロッパ各国のリーグ上位クラブなどが参加して争われるカップ戦)準優勝、2004年もUEFAカップ、ベスト8。
そして2005年7月、中村俊輔がやってきた。
グラスコー空港は、300人以上のマスコミやサポーターが押しかけた。
スコットランドのプロサッカーリーグは、イングランドに次いで世界で2番目の長い歴史を持つ。
8月から5月にかけて12のクラブが全38節の試合を行う。
第1節から33節は3回総当たり戦。
その後、上位6チーム、下位6チームの2つのグループに分かれ、グループごとに1回の総当たり戦でトータルの順位を決める。
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