火野正平
来歴
子役時代から活躍
世田谷区立中丸小学校、目黒区立中根小学校、目黒区立第十一中学校を経た]後に大阪に移り、豊中市立第二中学校を経て、大阪府立桜塚高等学校を中退。
芸名の名付け親は池波正太郎
1974年、舛田利雄監督/筒井康隆原作の『俺の血は他人の血』に主演し、映画デビュー。その後、『必殺シリーズ』の絵草紙屋の正八、『服部半蔵 影の軍団』の伊賀忍者:大八、『長七郎江戸日記』の辰三郎など、時代劇を中心に活躍。
自然体がウケる一方、歌手としても高い評価
2009年3月、18年ぶりに新曲「今年の薔薇」、アルバム『ウーマン達への子守唄』で歌手活動を再開。また、『にっぽん縦断 こころ旅』のような旅番組にも出演して飾らない姿を見せており、こちらの評価も高い。
芸能人プレイボーイの元祖でした
火野正平といえば元祖プレイボーイ
高所恐怖症であり、『にっぽん縦断 こころ旅』では度々高度のある橋を渡らされてはぼやくことが恒例となっている。なお、耐えられる基準は「落ちて死ぬかどうか」だという。
私生活では1970年、同棲生活をしていた一般女性と結婚、1男1女を儲けるも1972年別居を経て離婚。その後も1971年の新藤恵美を皮切りに、1972年小鹿みき、1977年紀比呂子、ホーン・ユキ、りりィ、1978年望月真理子、1981年西川峰子といった女優と浮名を流し当時のワイドショーを賑わせた。1982年には同棲をしていた一般女性との間に、2人の女の子が生まれて認知した。平成に入ってからも、羽賀研二とも噂があった染谷まさ美との交際が噂された。
以降、ドラマや映画などでも、女性を扱うのが上手な役柄や女性にモテる役柄を演じることが多くなった。「芸能人プレイボーイの元祖」と言われた。
火野正平と浮名を流した女性たち
新藤恵美
クラシックバレエを4歳から始め、星美学園中学校・高等学校在学中の1964年、スカウトされ15歳で芸能界入り。松竹映画のニューフェースとしてデビュー。
1971年、テレビドラマ『美しきチャレンジャー』の主演で人気を得る。
1980年代には日活ロマンポルノ作品にも出演。元夫は俳優の長谷川明男(後に離婚)。1990年に6歳年下のマネージャーと再婚した。