巨人で活躍した投手ガリクソン!息子の名前に「クワタ」と名付けた!
2016年11月25日 更新

巨人で活躍した投手ガリクソン!息子の名前に「クワタ」と名付けた!

80年代後半、巨人の投手で印象深いビル・ガリクソン。巨人入り前はメジャーでも大活躍していた選手で巨人での年棒は2億円とも!桑田真澄とも親交が深く、息子のミドルネームにクワタと名付けた。二人の熱い友情エピソードも特集する!

21,144 view

メジャーと巨人で活躍した投手 「ビル・ガリクソン」

プロ野球、読売ジャイアンツの選手。
右投右打、ポジションは投手。背番号は20番。
1959年2月20日生まれ。米国ミネソタ州出身。

ジョリエット高校から1979年、モントリオール・エクスポズにドラフト1位で入団。
1979年9月、MLB昇格。翌1980年、10勝5敗でナショナルリーグの新人王に輝く。
1982年から6年連続で2桁勝利を記録。
巨人活躍したビル・ガリクソン

巨人活躍したビル・ガリクソン

ガリクソンのメジャーリーグでの好成績に白羽の矢を立てた巨人。
巨人入りに際し、年俸は1億8千万円から2億円とも言われ、当時の日本プロ野球界最高年俸で、シーズン前から、早くも史上最高の助っ人と噂された。
巨人在籍の2年間で21勝(14敗)と安定した成績を挙げた。

巨人時代の背番号は20番。

G 読売ジャイアンツ[巨人] 20 ビル・ガリクソン 応援歌 - YouTube

「ピッチャー ガリクソン 背番号20」のアナウンスから流れる応援歌が懐かし過ぎる!
1990年、ヒューストン・アストロズでMLBに復帰、1991年には20勝(9敗)で最多勝利。
1992年にはデトロイト・タイガースに転じ14勝、1993年には13勝をあげた。
1994年、現役引退。MLB通算162勝。

ヤンキースから巨人入りしたガリクソン!1年目に14勝!

1987年にエースだった江川卓が球団の慰留を押し切って引退した。
その穴を埋めるべく、獲得されたのがメジャーリーグで抜群の成績を誇っていたガリクソンであった。

1988年に29歳という若さですでにメジャー通算101勝を挙げていたガリクソン。
名門ヤンキースからフリーエージェントになったタイミングも良く、巨人がオファー。日本プロ野球入りが実現した。
巨人入りの時点でメジャーリーグ通算101勝!

巨人入りの時点でメジャーリーグ通算101勝!

1988年は26試合に登板し14勝9敗防御率3.10。MLB時代と同様にタフな投球で14完投(3完封)、投球イニングは203 1/3回を記録しました。

そういえばこの年デビューした長嶋一茂に、神宮球場のバックスクリーンにプロ初安打初本塁打を放たれたこともありました。

翌1989年も活躍が期待されましたが、怪我もあり15試合7勝5敗防御率3.65に終わりましたが、それでも6完投を含め111イニングに登板したのは立派です。

ガリクソン初登板初勝利 1988年4月 巨人 vs ヤクルト - YouTube

来日後の初先発の初球はストライク!

糖尿病のインスリン注射を打ちながら投げ抜いた!!

来日したガリクソンは入団会見で自身が1型糖尿病を患っていること、自らでインスリンを注射していることを告白し世間を驚かせました。

ガリクソンはプロ入り後の21歳で1型糖尿病になったのですが、「ナンバーワンの野球選手になろうと思ったし、ナンバーワンの糖尿病患者にもなろうと思ってきたよ」、「アップルパイを全部食べろと言われてそれが出来なくても、僕には自分に大切なことで出来ないことはないのさ」というコメントを残しています。

また年俸以外の副収入は全て糖尿病患者のために寄付していたということです。
こういったガリクソンの活動に敬意を表し、日本糖尿病協会は社会的貢献をした小児糖尿病患者を表彰する「ガリクソン賞」を制定しました。

著書では糖尿病と向き合う様子が語られている!

書籍 「ナイスコントロール! ガリクソン投手のおくりもの」

書籍 「ナイスコントロール! ガリクソン投手のおくりもの」

ビル・ガリクソン (著), 鈴木 吉彦 (著)
出版社: 医歯薬出版 (1990/01)
彼は前書きにこう書いている。
「プロ野球の選手としてのスタートをきったのは18歳のときでしたが、21歳で糖尿病と診断され、この時、病気のため、私の望みは叶わないだろうと思ったものです。
糖尿病と診断されたその日から、ずっとこの病気とともに生きることを学ぶ毎日でした。この本の中で、私がどうやって、糖尿病の恐怖を克服したか、そして今、どうやって私の病気を前向きの姿勢で受け止めているかをお話したいと思います」

桑田真澄と仲が良く、息子のミドルネームに「クワタ」と名付けた!

巨人在籍時代、ガリクソンは桑田真澄投手と仲が良く、息子のミドルネームに「クワタ」と名づけている(桑田の選手生活晩年にメジャー挑戦を決意させたのも、この頃ガリクソンが桑田にメジャーについて語ったことが大きく影響している。)。
週刊ベースボールの表紙を飾る巨人時代の桑田

週刊ベースボールの表紙を飾る巨人時代の桑田

表紙右には「独占!注目のガリクソン全告白」の見出しが!
スタンドには巨人時代、桑田と同僚投手だったビル・ガリクソン氏(47)が州内の自宅から応援に駆けつけた。
ガリクソン氏は、巨人移籍当時から糖尿病に苦しんだが、桑田との友情が大きな支えとなったことから、息子のクレッグ君(19)のミドルネームをクワタと名付けている。

「バットを折るほどいい球だったはずなのに…。あんな本塁打は見たことがない。息子は最初に桑田と会ったときと同じ年齢になり、左腕投手として活躍している。桑田はよく大リーグの話を聞きたがり、その夢のために米国で頑張っている姿を見て本当に感動した。息子の姿を見ているような気さえする。頑張ってほしい」

38歳になっても、少年のように夢を追う桑田の姿を見て、ガリクソン氏は思わずスタンドで感極まって涙を流した。
試合後、桑田は「彼が5、6歳のとき以来だから、もう見上げるようになっているかな」とクレッグ君に会うために、ガリクソン氏とともに球場を後に。
※記事は桑田が選手としての晩年にメジャーリーグへ挑戦した頃のもの。
30 件

思い出を語ろう

     
  • 記事コメント
  • Facebookでコメント
  • コメントはまだありません

    コメントを書く
    ※投稿の受け付けから公開までお時間を頂く場合があります。

あなたにおすすめ

関連する記事こんな記事も人気です♪

巨人の黄金バッテリー・斎藤雅樹と村田真一がレジェンド投手陣を書き尽くす共著『ジャイアンツ伝統のエースたち』が発売!!

巨人の黄金バッテリー・斎藤雅樹と村田真一がレジェンド投手陣を書き尽くす共著『ジャイアンツ伝統のエースたち』が発売!!

日本文芸社より、元読売ジャイアンツの斎藤雅樹・村田真一の共著『ジャイアンツ伝統のエースたち』の発売が決定しました。
隣人速報 | 306 view
【スキャンダルにまみれた苦悩の?エース】元巨人・桑田真澄さんの波乱万丈の人生

【スキャンダルにまみれた苦悩の?エース】元巨人・桑田真澄さんの波乱万丈の人生

「KKコンビ」として甲子園を史上最大級に沸かせたPL学園の桑田真澄さん。しかし、彼の野球人生は、栄光ばかりではありませんでした。あることないことを書かれ、非常につらい思いも。真実はもちろんご本人にしかわかりませんが、彼の人となりを紹介してみたいと思います。
ジバニャンLOVE | 28,499 view
悪太郎・堀内恒夫!態度の大きい新人投手は沢村賞を獲得!HRの多い投手でしたね!

悪太郎・堀内恒夫!態度の大きい新人投手は沢村賞を獲得!HRの多い投手でしたね!

堀内恒夫。巨人軍のV9を支えた大エース背番号「18」。夜遊びを続けた悪太郎。しかし、成績は落とさずに200勝投手になりました!
ひで語録 | 17,120 view
【河野博文投手】ミスターに「ゲンちゃん」と愛された中継ぎエースの現在地。

【河野博文投手】ミスターに「ゲンちゃん」と愛された中継ぎエースの現在地。

1988年に最優秀防御率賞を獲得した河野投手はその後、FAで日本ハムから巨人に移籍する。1996年シーズン、首位に最大11.5ゲーム差をつけられてからの大逆転優勝(メークドラマ)に大きく貢献した。長島監督から「ゲンちゃん」と呼ばれた中継ぎエースは引退後波乱の人生を送ることになる・・・。
和尚 | 8,300 view
あなたが選ぶ巨人ベストゲーム第17弾!王貞治が世界新記録となる756号ホームランを放った1977年ヤクルト戦が放送決定!

あなたが選ぶ巨人ベストゲーム第17弾!王貞治が世界新記録となる756号ホームランを放った1977年ヤクルト戦が放送決定!

CS放送 日テレジータスにて「あなたが選ぶ巨人ベストゲーム第17弾」と題し、王貞治が世界新記録となる756号ホームランを放った伝説の試合として知られる、1977年9月3日のヤクルト戦が放送されます。
隣人速報 | 98 view

この記事のキーワード

カテゴリ一覧・年代別に探す

あの頃ナウ あなたの「あの頃」を簡単検索!!「生まれた年」「検索したい年齢」を選択するだけ!
リクエスト