メジャーと巨人で活躍した投手 「ビル・ガリクソン」
プロ野球、読売ジャイアンツの選手。
右投右打、ポジションは投手。背番号は20番。
1959年2月20日生まれ。米国ミネソタ州出身。
ジョリエット高校から1979年、モントリオール・エクスポズにドラフト1位で入団。
1979年9月、MLB昇格。翌1980年、10勝5敗でナショナルリーグの新人王に輝く。
1982年から6年連続で2桁勝利を記録。
ガリクソンのメジャーリーグでの好成績に白羽の矢を立てた巨人。
巨人入りに際し、年俸は1億8千万円から2億円とも言われ、当時の日本プロ野球界最高年俸で、シーズン前から、早くも史上最高の助っ人と噂された。
巨人在籍の2年間で21勝(14敗)と安定した成績を挙げた。
巨人時代の背番号は20番。
巨人入りに際し、年俸は1億8千万円から2億円とも言われ、当時の日本プロ野球界最高年俸で、シーズン前から、早くも史上最高の助っ人と噂された。
巨人在籍の2年間で21勝(14敗)と安定した成績を挙げた。
巨人時代の背番号は20番。
G 読売ジャイアンツ[巨人] 20 ビル・ガリクソン 応援歌 - YouTube
「ピッチャー ガリクソン 背番号20」のアナウンスから流れる応援歌が懐かし過ぎる!
via www.youtube.com
1990年、ヒューストン・アストロズでMLBに復帰、1991年には20勝(9敗)で最多勝利。
1992年にはデトロイト・タイガースに転じ14勝、1993年には13勝をあげた。
1994年、現役引退。MLB通算162勝。
ヤンキースから巨人入りしたガリクソン!1年目に14勝!
1987年にエースだった江川卓が球団の慰留を押し切って引退した。
その穴を埋めるべく、獲得されたのがメジャーリーグで抜群の成績を誇っていたガリクソンであった。
1988年に29歳という若さですでにメジャー通算101勝を挙げていたガリクソン。
名門ヤンキースからフリーエージェントになったタイミングも良く、巨人がオファー。日本プロ野球入りが実現した。
その穴を埋めるべく、獲得されたのがメジャーリーグで抜群の成績を誇っていたガリクソンであった。
1988年に29歳という若さですでにメジャー通算101勝を挙げていたガリクソン。
名門ヤンキースからフリーエージェントになったタイミングも良く、巨人がオファー。日本プロ野球入りが実現した。
1988年は26試合に登板し14勝9敗防御率3.10。MLB時代と同様にタフな投球で14完投(3完封)、投球イニングは203 1/3回を記録しました。
そういえばこの年デビューした長嶋一茂に、神宮球場のバックスクリーンにプロ初安打初本塁打を放たれたこともありました。
翌1989年も活躍が期待されましたが、怪我もあり15試合7勝5敗防御率3.65に終わりましたが、それでも6完投を含め111イニングに登板したのは立派です。
ガリクソン初登板初勝利 1988年4月 巨人 vs ヤクルト - YouTube
来日後の初先発の初球はストライク!
via www.youtube.com
糖尿病のインスリン注射を打ちながら投げ抜いた!!
来日したガリクソンは入団会見で自身が1型糖尿病を患っていること、自らでインスリンを注射していることを告白し世間を驚かせました。
ガリクソンはプロ入り後の21歳で1型糖尿病になったのですが、「ナンバーワンの野球選手になろうと思ったし、ナンバーワンの糖尿病患者にもなろうと思ってきたよ」、「アップルパイを全部食べろと言われてそれが出来なくても、僕には自分に大切なことで出来ないことはないのさ」というコメントを残しています。
また年俸以外の副収入は全て糖尿病患者のために寄付していたということです。
こういったガリクソンの活動に敬意を表し、日本糖尿病協会は社会的貢献をした小児糖尿病患者を表彰する「ガリクソン賞」を制定しました。
著書では糖尿病と向き合う様子が語られている!
via www.ritomo.jp
彼は前書きにこう書いている。
「プロ野球の選手としてのスタートをきったのは18歳のときでしたが、21歳で糖尿病と診断され、この時、病気のため、私の望みは叶わないだろうと思ったものです。
糖尿病と診断されたその日から、ずっとこの病気とともに生きることを学ぶ毎日でした。この本の中で、私がどうやって、糖尿病の恐怖を克服したか、そして今、どうやって私の病気を前向きの姿勢で受け止めているかをお話したいと思います」
桑田真澄と仲が良く、息子のミドルネームに「クワタ」と名付けた!
巨人在籍時代、ガリクソンは桑田真澄投手と仲が良く、息子のミドルネームに「クワタ」と名づけている(桑田の選手生活晩年にメジャー挑戦を決意させたのも、この頃ガリクソンが桑田にメジャーについて語ったことが大きく影響している。)。
スタンドには巨人時代、桑田と同僚投手だったビル・ガリクソン氏(47)が州内の自宅から応援に駆けつけた。
ガリクソン氏は、巨人移籍当時から糖尿病に苦しんだが、桑田との友情が大きな支えとなったことから、息子のクレッグ君(19)のミドルネームをクワタと名付けている。
「バットを折るほどいい球だったはずなのに…。あんな本塁打は見たことがない。息子は最初に桑田と会ったときと同じ年齢になり、左腕投手として活躍している。桑田はよく大リーグの話を聞きたがり、その夢のために米国で頑張っている姿を見て本当に感動した。息子の姿を見ているような気さえする。頑張ってほしい」
38歳になっても、少年のように夢を追う桑田の姿を見て、ガリクソン氏は思わずスタンドで感極まって涙を流した。
試合後、桑田は「彼が5、6歳のとき以来だから、もう見上げるようになっているかな」とクレッグ君に会うために、ガリクソン氏とともに球場を後に。
※記事は桑田が選手としての晩年にメジャーリーグへ挑戦した頃のもの。