【ミスタープロレス】天龍源一郎
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天龍、引退試合で王者オカダに玉砕「腹一杯のプロレス人生でした。」 - Middle Edge(ミドルエッジ)
ミスタープロレス・天龍源一郎(65)の引退試合が2015年11月15日、東京・両国国技館で行われた。相手は新日本プロレスのIWGPヘビー級王者オカダ・カズチカ(28)。超満員札止め1万522人の観衆を集めて行われた引退試合で39年におよぶプロレス人生に別れを告げた。
角界時代
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1973年1月場所から幕内に16場所在位し西前頭筆頭まで上り詰めるが、1975年に師匠の死去に端を発する部屋の後継問題に巻き込まれる。
自身は押尾川親方(大麒麟)の興した押尾川部屋に入りたかったのだが、金剛が二所ノ関を襲名して継承した二所ノ関部屋に戻され意気消沈したとされる。1976年秋場所に勝ち越したものの(東前頭13枚目、8勝7敗)、同場所を最後に廃業し、同年10月全日本プロレスへ入団した。
自身は押尾川親方(大麒麟)の興した押尾川部屋に入りたかったのだが、金剛が二所ノ関を襲名して継承した二所ノ関部屋に戻され意気消沈したとされる。1976年秋場所に勝ち越したものの(東前頭13枚目、8勝7敗)、同場所を最後に廃業し、同年10月全日本プロレスへ入団した。
全日本プロレス
1981年7月、ビル・ロビンソンとのタッグで馬場・鶴田組の保持するインターナショナル・タッグ王座へ挑戦。
天龍自身も「あの試合が俺の真打昇進の試合だった」と語っているように、実際この試合以降から天龍の評価も急上昇し全日第3の男、風雲昇り龍としてブレイク。
天龍自身も「あの試合が俺の真打昇進の試合だった」と語っているように、実際この試合以降から天龍の評価も急上昇し全日第3の男、風雲昇り龍としてブレイク。
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また、ライバル団体だった新日本プロレスの総帥アントニオ猪木に遠慮して全日マットでは誰も使っていなかった延髄斬りや卍固めを使い始め、天龍カラーを確立していくことに。
1982年秋頃からタイツを紫から黒へ、そして黄色の紐のシューズという天龍スタイルに変更。
鶴田と次期ダブルエースの座を確立し、1984年2月リッキー・スティムボートとの王座決定戦に勝利しUNヘビー級王座のタイトルを獲得。
さらに長州力率いるジャパンプロレスの全日参戦をきっかけに、闘争心をむき出しにして戦うスタイルへと変貌し、鶴田とのタッグ「鶴龍コンビ」で長州・谷津嘉章組と抗争を繰り広げ、人気も得た。
1982年秋頃からタイツを紫から黒へ、そして黄色の紐のシューズという天龍スタイルに変更。
鶴田と次期ダブルエースの座を確立し、1984年2月リッキー・スティムボートとの王座決定戦に勝利しUNヘビー級王座のタイトルを獲得。
さらに長州力率いるジャパンプロレスの全日参戦をきっかけに、闘争心をむき出しにして戦うスタイルへと変貌し、鶴田とのタッグ「鶴龍コンビ」で長州・谷津嘉章組と抗争を繰り広げ、人気も得た。
阿修羅原さん 追悼企画 昔、ラガーマンだったプロレスラーたち - Middle Edge(ミドルエッジ)
元プロレスラーで天龍源一郎とのタッグで活躍した阿修羅原さん(本名・原進)が28日午前5時15分、長崎県諫早市内の病院で死去したことが分かった。68歳だった。阿修羅原さんの足跡と共にラグビー出身のプロレスラーをまとめました。
1986年10月、阿修羅・原とシングル戦で引き分けたことを契機に、長州離脱後には全日マットの活性化を目指し龍原砲を結成。
更には天龍同盟を結成(原、サムソン冬木、川田利明、小川良成)。REVOLUTIONを旗印とした「地方でも決して手を抜かない」をテーマにした闘いは、やがてファンの大きな支持を得るようになった。
特に鶴田とのシングル対決は鶴龍対決と呼ばれ全日本プロレスのドル箱カードとなり、1987年、1989年のプロレス大賞ベストバウト賞を獲得するなど、長州離脱後に人気が低落した全日本プロレスを盛り立てた。
1989年6月には鶴田とのタイトルマッチを制し三冠ヘビー級王座を獲得、第2代王者となった。11月にはスタン・ハンセンと組んでのタッグ対決ながら馬場からパワーボムからのエビ固めで日本人では初めてピンフォールを奪った。
更には天龍同盟を結成(原、サムソン冬木、川田利明、小川良成)。REVOLUTIONを旗印とした「地方でも決して手を抜かない」をテーマにした闘いは、やがてファンの大きな支持を得るようになった。
特に鶴田とのシングル対決は鶴龍対決と呼ばれ全日本プロレスのドル箱カードとなり、1987年、1989年のプロレス大賞ベストバウト賞を獲得するなど、長州離脱後に人気が低落した全日本プロレスを盛り立てた。
1989年6月には鶴田とのタイトルマッチを制し三冠ヘビー級王座を獲得、第2代王者となった。11月にはスタン・ハンセンと組んでのタッグ対決ながら馬場からパワーボムからのエビ固めで日本人では初めてピンフォールを奪った。
【ジャンボ鶴田VS天龍源一郎】「鶴龍対決」と称された1980年代後半の全日本プロレス看板カード!恵まれた体躯を誇った二人のド迫力対決にファンは酔いしれました!! - Middle Edge(ミドルエッジ)
全日本プロレス完全無欠のエース「ジャンボ鶴田」は、いまでも”本気を出したら一番強かったレスラー”と称されることが多い。また「生ける伝説」とまで称される天龍源一郎のプロレス団体を跨にかけた現役時代の活躍ぶりは言うまでもない。この2人が80年代後半に繰り広げた「鶴龍対決」は、いまでも当時の熱狂を思い起こさせてくれる闘い。体躯に恵まれた二人のド迫力バトルを振り返ってみたい。
身長189cm、体重120kg。
引退するまで第一線で活躍し続けた、日本プロレス界において「生ける伝説」として一目置かれる存在。