THE YELLOW MONKEY(イエモン)
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楽園 / THE YELLOW MONKEY - YouTube
大好きなナンバーです!
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イエモン、再集結後『THE MUSIC DAY』で初歌唱!司会は嵐・櫻井翔が務める - Middle Edge(ミドルエッジ)
2016年7月2日に放送される大型音楽特番『THE MUSIC DAY』にTHE YELLOW MONKEYが再集結後初のテレビで歌唱する。司会の櫻井翔も出演を楽しみにしている。
イエモンの歩み
ダサくてシニカルな名前にしたい=「イエローモンキー」
結成、デビュー
「イエローモンキー」は主に西洋圏で使用される、東洋人に対する蔑称。
この名前はダサくてシニカルな名前にしたいと考えていた吉井によって、結成前から命名されていた。
吉井曰く、ルックスが良くて長身なのが「イエロー・モンキー」のコンセプトであり、事実、183cmの吉井以下全員が180前後の身長である。
1988年に結成。結成初期は「渋谷ラ・ママ」というライブハウスを中心に活動。バンド初期はデヴィッド・ボウイ、ミック・ロンソン、T.Rexなどを彷彿とさせるグラムロック色が強く、メンバーが化粧をしたりするなど、後のヴィジュアル系のようなルックスだった。
この名前はダサくてシニカルな名前にしたいと考えていた吉井によって、結成前から命名されていた。
吉井曰く、ルックスが良くて長身なのが「イエロー・モンキー」のコンセプトであり、事実、183cmの吉井以下全員が180前後の身長である。
1988年に結成。結成初期は「渋谷ラ・ママ」というライブハウスを中心に活動。バンド初期はデヴィッド・ボウイ、ミック・ロンソン、T.Rexなどを彷彿とさせるグラムロック色が強く、メンバーが化粧をしたりするなど、後のヴィジュアル系のようなルックスだった。
SPARK / THE YELLOW MONKEY - YouTube
カッコよかったな~「SPARK」
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メジャーデビュー
1992年5月21日、日本コロムビアより1stシングル『Romantist Taste』でメジャーデビュー。1か月後には1stアルバム『THE NIGHT SNAILS AND PLASTIC BOOGIE』をリリース。
1993年4月には日本青年館で初のホールライブを実施。同ライブでは、頭に袋を被せた裸の女性2人をステージに出す衝撃的なオープニング演出を行った。
1994年3月にはコンセプトアルバムとして3rdアルバム『jaguar hard pain 1944〜1994』がリリース。
吉井は、本作の主人公である「ジャガー」になりきるため、髪を丸坊主の軍人カットにし、ツアーでも芝居のような要素を取り入れるなど、独自の路線を追求。観客動員は軒並み上がっていったが売り上げ枚数は変わらず、吉井は「なんでライブはみんな虜になってくれるのに、音源に関してはそうならない?」と悩んだという。観客動員が良かったこともあり、ツアーの終盤に翌年日本武道館公演が実施されることが決定。
1993年4月には日本青年館で初のホールライブを実施。同ライブでは、頭に袋を被せた裸の女性2人をステージに出す衝撃的なオープニング演出を行った。
1994年3月にはコンセプトアルバムとして3rdアルバム『jaguar hard pain 1944〜1994』がリリース。
吉井は、本作の主人公である「ジャガー」になりきるため、髪を丸坊主の軍人カットにし、ツアーでも芝居のような要素を取り入れるなど、独自の路線を追求。観客動員は軒並み上がっていったが売り上げ枚数は変わらず、吉井は「なんでライブはみんな虜になってくれるのに、音源に関してはそうならない?」と悩んだという。観客動員が良かったこともあり、ツアーの終盤に翌年日本武道館公演が実施されることが決定。
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太陽が燃えている / THE YELLOW MONKEY - YouTube
ここからイエモン旋風が巻き起こりました。
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路線変更、ブレイク
デビューから3年間は思うように売れず、メンバーはスタッフとミーティングを重ねた。ディレクターである宗清の「10万枚で終わるか、オリコン1位を目指すのか」という質問に対し、メンバーは「オリコン1位」と返答し、これを機にしてチャート向けな楽曲作りに路線を変更。
1995年1月にリリースされた5thシングル『Love Communication』はヒット曲を意識して作られ、目論見通り自身初のオリコンシングルチャートTOP30入りを果たし、スマッシュヒットを記録。同年2月にリリースされた4thアルバム『smile』はオリコンアルバムチャート初登場4位を記録し、大幅に売上はアップした。
同年4月に初の日本武道館公演を実施し、即日完売するなど順調に人気を上げていく。同年7月にリリースされた7thシングル『追憶のマーメイド』がシングル初のTOP20入り、同年9月にリリースされた8thシングル『太陽が燃えている』がシングル初のTOP10入り、イギリスでレコーディングされた5thアルバム『FOUR SEASONS』がオリコン初登場1位を記録するなど、バンドの人気を確実なものとする。
1996年2月にリリースされた9thシングル『JAM/Tactics』が累計80万枚、同年7月にリリースされた10thシングル『SPARK』が累計55万枚を越えるヒット。
1995年1月にリリースされた5thシングル『Love Communication』はヒット曲を意識して作られ、目論見通り自身初のオリコンシングルチャートTOP30入りを果たし、スマッシュヒットを記録。同年2月にリリースされた4thアルバム『smile』はオリコンアルバムチャート初登場4位を記録し、大幅に売上はアップした。
同年4月に初の日本武道館公演を実施し、即日完売するなど順調に人気を上げていく。同年7月にリリースされた7thシングル『追憶のマーメイド』がシングル初のTOP20入り、同年9月にリリースされた8thシングル『太陽が燃えている』がシングル初のTOP10入り、イギリスでレコーディングされた5thアルバム『FOUR SEASONS』がオリコン初登場1位を記録するなど、バンドの人気を確実なものとする。
1996年2月にリリースされた9thシングル『JAM/Tactics』が累計80万枚、同年7月にリリースされた10thシングル『SPARK』が累計55万枚を越えるヒット。
JAM / THE YELLOW MONKEY - YouTube
何度もカラオケで歌わせてもらったな~。
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レコード会社移籍後
1996年12月に日本コロムビアよりリリースされた非公認ベスト・アルバム『TRIAD YEARS actI〜THE VERY BEST OF THE YELLOW MONKEY』はバンド唯一のミリオンセラーを記録。
移籍後は独自のロックを追求していき、1997年1月にリリースされた6thアルバム『SICKS』は吉井自らが最高傑作と自負する作品となり、オリコン初登場1位、オリジナルアルバムでは自身最高の売上を記録した。
11thシングル『楽園』、12thシングル『LOVE LOVE SHOW』、13thシングル『BURN』(累計90万枚)など、シングルにおいても、いずれも45万枚以上の高いセールスをキープ。14thシングル『球根』は、シングルでは自身唯一のオリコン初登場1位を記録するなど、この時期に最も安定した人気を保つことになる。
1997年は精力的なライブ活動を行い、2月には、20公演を回る初のアリーナ・ツアー「FIX THE SICKS」を実施し、トータル15万人を動員。
移籍後は独自のロックを追求していき、1997年1月にリリースされた6thアルバム『SICKS』は吉井自らが最高傑作と自負する作品となり、オリコン初登場1位、オリジナルアルバムでは自身最高の売上を記録した。
11thシングル『楽園』、12thシングル『LOVE LOVE SHOW』、13thシングル『BURN』(累計90万枚)など、シングルにおいても、いずれも45万枚以上の高いセールスをキープ。14thシングル『球根』は、シングルでは自身唯一のオリコン初登場1位を記録するなど、この時期に最も安定した人気を保つことになる。
1997年は精力的なライブ活動を行い、2月には、20公演を回る初のアリーナ・ツアー「FIX THE SICKS」を実施し、トータル15万人を動員。
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PUNCH DRUNKARD TOUR
1998年にリリースされた7thアルバム『PUNCH DRUNKARD』では、3作連続となるオリコン初登場1位を記録。ハードロック寄りとなり、ライブを強く意識したアルバムとなった。
このアルバムを引っさげ、同年4月、ホール72本、アリーナ41本、計113本を1年かけて回る「PUNCH DRUNKARD TOUR」を実施。同年1月7日の読売新聞には、14thシングル『球根』と、アルバム『PUNCH DRUNKARD』のリリース情報とともに、全113本のツアー日程が全面広告で掲載された。
選曲の面で吉井は苦悩し、前半のホールツアーは「洋楽志向のチャレンジ」として『PUNCH DRUNKARD』のアルバム曲が中心であったが、ツアーラストである1998年10月6日の岡山市市民会館で、吉井が「このツアーは失敗でした」と発言。後半のアリーナツアーからは「エンターテインメントに戻す」とし、アルバム曲を控えて過去のヒット曲を中心に演奏するようになった。
吉井は後に、1999年3月10日に横浜アリーナで行われたファイナルを、「覚えてない。お客さんが見えていない」と語り、このツアーを「ひたすら打たれ続けてた感じ」と語っている。「PUNCH DRUNKARD TOUR」は延べ55万人を動員し、1年間の経済効果は、グッズ・チケット・CDなどの売上を合わせ、100億円以上になるという。
このアルバムを引っさげ、同年4月、ホール72本、アリーナ41本、計113本を1年かけて回る「PUNCH DRUNKARD TOUR」を実施。同年1月7日の読売新聞には、14thシングル『球根』と、アルバム『PUNCH DRUNKARD』のリリース情報とともに、全113本のツアー日程が全面広告で掲載された。
選曲の面で吉井は苦悩し、前半のホールツアーは「洋楽志向のチャレンジ」として『PUNCH DRUNKARD』のアルバム曲が中心であったが、ツアーラストである1998年10月6日の岡山市市民会館で、吉井が「このツアーは失敗でした」と発言。後半のアリーナツアーからは「エンターテインメントに戻す」とし、アルバム曲を控えて過去のヒット曲を中心に演奏するようになった。
吉井は後に、1999年3月10日に横浜アリーナで行われたファイナルを、「覚えてない。お客さんが見えていない」と語り、このツアーを「ひたすら打たれ続けてた感じ」と語っている。「PUNCH DRUNKARD TOUR」は延べ55万人を動員し、1年間の経済効果は、グッズ・チケット・CDなどの売上を合わせ、100億円以上になるという。
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LOVE LOVE SHOW / THE YELLOW MONKEY - YouTube
盛り上がるんだよね、イエモンは。
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外部プロデューサーの導入
「PUNCH DRUNKARD TOUR」終了後、バンドサウンドを見直すためのミーティングが行われ、シングル作品に朝本浩文、森俊之、笹路正徳などの外部プロデューサーを導入する新しい展開を行う。
後に吉井は「そういう悪い状況で、自分の楽曲を他人に委ねる時点で終わっている」といった否定的な発言を多く残しているが、反面「このまま手癖で続けるわけにもいかず、30代、40代とバンドを続けていくために必要なことだったのも事実」とも語っている。
8thアルバム『8』の楽曲のレコーディングのためにロンドンへ向かった際、当時メンバーが多忙だったこともあり、スタジオに吉井一人しかいないという状況が続く。
メンバーとの温度差を感じ始めた吉井が帰国後、事務所に社長含む関係者を集め「俺をクビにしてくれ」と頼み込み、バンドへの不満を投げかけた。バンドは存続したが、「微妙な距離感が生まれた」と吉井は語っている。
2000年7月にリリースされた22ndシングル『パール』、同年7月にリリースされた8thアルバム『8』は吉井セルフプロデュース作品となった。
『8』のアルバムツアーは行われず、バンドは初となる国内ロックフェスに参加。しかし、そこでの吉井はノーメイクでジャージ姿という格好で出演。「はたから見ても異常、イエローモンキーを引き受けていない」状態であった。
同年12月30日、「CDTV年越しプレミアライブ」に緊急生出演。吉井が「ツアーが終わったら、俺たちプー太郎になっちゃうけど・・・」とコメントした後、23rdシングル『BRILLIANT WORLD』を披露し番組のトリを飾る。これが実質THE YELLOW MONKEYとしての最後のTV出演となった。
2001年1月8日に初の東京ドーム公演となる「メカラ ウロコ・8」を行う。初の大舞台にも関わらず、メンバーはステージ裏で円陣を組んだり会話をしたりすることもなく、淡々としていたという。吉井は「ドームの裏とは思えない。今振り返ると、それだけモンスターバンドだったんだなと思う」と語っている。結果的にこれが最後のライブとなった。
後に吉井は「そういう悪い状況で、自分の楽曲を他人に委ねる時点で終わっている」といった否定的な発言を多く残しているが、反面「このまま手癖で続けるわけにもいかず、30代、40代とバンドを続けていくために必要なことだったのも事実」とも語っている。
8thアルバム『8』の楽曲のレコーディングのためにロンドンへ向かった際、当時メンバーが多忙だったこともあり、スタジオに吉井一人しかいないという状況が続く。
メンバーとの温度差を感じ始めた吉井が帰国後、事務所に社長含む関係者を集め「俺をクビにしてくれ」と頼み込み、バンドへの不満を投げかけた。バンドは存続したが、「微妙な距離感が生まれた」と吉井は語っている。
2000年7月にリリースされた22ndシングル『パール』、同年7月にリリースされた8thアルバム『8』は吉井セルフプロデュース作品となった。
『8』のアルバムツアーは行われず、バンドは初となる国内ロックフェスに参加。しかし、そこでの吉井はノーメイクでジャージ姿という格好で出演。「はたから見ても異常、イエローモンキーを引き受けていない」状態であった。
同年12月30日、「CDTV年越しプレミアライブ」に緊急生出演。吉井が「ツアーが終わったら、俺たちプー太郎になっちゃうけど・・・」とコメントした後、23rdシングル『BRILLIANT WORLD』を披露し番組のトリを飾る。これが実質THE YELLOW MONKEYとしての最後のTV出演となった。
2001年1月8日に初の東京ドーム公演となる「メカラ ウロコ・8」を行う。初の大舞台にも関わらず、メンバーはステージ裏で円陣を組んだり会話をしたりすることもなく、淡々としていたという。吉井は「ドームの裏とは思えない。今振り返ると、それだけモンスターバンドだったんだなと思う」と語っている。結果的にこれが最後のライブとなった。
2001年1月~活動休止~解散
THE YELLOW MONKEYは、まさに90年代を駆け抜けたバンドでした。
2012年現在、CD総売上枚数は1008万枚。
1988年に結成、2001年1月より活動を停止し、2004年7月7日をもって解散。2016年に再び活動再開。