インテルのレジェンド!ハビエル・サネッティ!!
ハビエル・アデマール・サネッティ
1973年8月10日生まれ。アルゼンチン・ブエノスアイレス州出身。
178センチ、73キロ。
ポジションはディフェンダーもしくはミッドフィルダー。
1973年8月10日生まれ。アルゼンチン・ブエノスアイレス州出身。
178センチ、73キロ。
ポジションはディフェンダーもしくはミッドフィルダー。
アルゼンチンを代表するサッカー選手。
クラブチームとしては、日本代表の長友佑都が所属する(2016年7月時点)イタリア・セリエAのインテルのレジェンドの一人。
1995年に移籍してからは、現役を終えるまでインテル一筋だった。
クラブチームとしては、日本代表の長友佑都が所属する(2016年7月時点)イタリア・セリエAのインテルのレジェンドの一人。
1995年に移籍してからは、現役を終えるまでインテル一筋だった。
via c0.thejournal.ie
選手としての特徴は、ユーティリティ性が非常に高く、左右両サイドのディフェンダー・ミッドフィールダーとしてプレーすることができた。アルゼンチン代表では右サイドバックを担当した。
その屈強さ、弾力性、スタミナ、右サイドバックを務めた時の攻撃性能などから、イタリアではイル・トラクトーレ(Il Tractore=トラクター、スペイン語でEl Tractor エル・トラクトルとも)と呼ばれる。
その屈強さ、弾力性、スタミナ、右サイドバックを務めた時の攻撃性能などから、イタリアではイル・トラクトーレ(Il Tractore=トラクター、スペイン語でEl Tractor エル・トラクトルとも)と呼ばれる。
ハビエル・サネッティの来歴
プロサッカー選手の兄・セルヒオの影響で13歳の時インディペンディエンテの少年チームに加入するが、メンバーを外されてしまう。
1992年より地元アマチュアクラブのタジェーレスでプレーしていたが、1993年、19歳の時パンフィールドに加入、同年プロ・デビュー。豊富な運動量で高い評価を受けた。
そして代表チームの監督となったパサレラの目にとまり、代表のメンバーに加えられることとなったが、全く無名と言って良い存在だった。
脱マラドーナを目指すパサレラにとっては初めての試みだった。
1995年にイタリア・セリエAのインテルへ移籍。1995年に会長に就任したマッシモ・モラッティが最初に獲得した選手となった。
移籍当初、サネッティはイタリア風の名前(サネッティは曾祖父がイタリア人のためイタリア系アルゼンチン人であり、Zanettiはイタリアの苗字である)のために他の選手と間違えて獲得したのではないかとジョークにされるほどであったが、1997-1998シーズンのUEFAカップ優勝を皮切りに次々とタイトルを獲得。
1997-98シーズンにはUEFAカップでの優勝に貢献。
決勝(ラツィオ戦)ではチーム2点目となるゴールを決めている。
1999年にはジュゼッペ・ベルゴミが現役引退し、サネッティがキャプテンを引き継いだ。
2000年にはリーガ・エスパニョーラの強豪レアル・マドリードへの移籍を考えたが、モラッティ会長と話し合ってインテル残留を決めた。
決勝(ラツィオ戦)ではチーム2点目となるゴールを決めている。
1999年にはジュゼッペ・ベルゴミが現役引退し、サネッティがキャプテンを引き継いだ。
2000年にはリーガ・エスパニョーラの強豪レアル・マドリードへの移籍を考えたが、モラッティ会長と話し合ってインテル残留を決めた。
ワールドカップとはあまり相性が良くない!?
現役生活中にFIFAワールドカップは5度行われたが、サネッティは1998 FIFAワールドカップと2002 ワールドカップの2度しか出場できなかった。
2006 FIFAワールドカップと2010 FIFAワールドカップのメンバー選外は物議を醸し、特に2010 FIFAワールドカップは大会前のシーズンであった2009-2010シーズンにインテルで3冠を達成する原動力となっていたため、大きな波紋を呼んだ。
出場した1998年のフランスワールドカップ、決勝トーナメント1回戦のイングランド戦では、前半終了間際にフアン・セバスティアン・ベロンのフリーキックから2-2となる同点ゴールを決めた。
2002年の日韓ワールドカップでは、死の組と呼ばれたグループで3位となってしまい、決勝トーナメントに進めずにアルゼンチンは姿を消した。
2002年の日韓ワールドカップでは、死の組と呼ばれたグループで3位となってしまい、決勝トーナメントに進めずにアルゼンチンは姿を消した。