ロッテ一筋! 村田兆治とは
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男村田のプロ入り~マサカリ投法誕生!
プロ入りは1968年。
まだ東京オリオンズというチーム名でした。
1年目は大した活躍もできず過ごしていましたが
2年目には6勝(5完封)という活躍をしたのです。
ちなみにプロ入りしてからもこの頃までは村田兆治の
投球フォームはオーソドックスなオーバースローでした。
ここからフォームの改造に取り組むのですが、その
きっかけになったのが2年目のシーズンだったそうです。
まだ東京オリオンズというチーム名でした。
1年目は大した活躍もできず過ごしていましたが
2年目には6勝(5完封)という活躍をしたのです。
ちなみにプロ入りしてからもこの頃までは村田兆治の
投球フォームはオーソドックスなオーバースローでした。
ここからフォームの改造に取り組むのですが、その
きっかけになったのが2年目のシーズンだったそうです。
via mainichi.jp
あの年はね、のちの村田兆治を作るためのターニングポイントだったんです。たしかに5完封はしました。でも6勝。じゃあ、ほかの先発の試合、オレは何をやっていたんだろう(この年、先発は20試合)。こういうことではダメだ。そこから、自分を鍛え直していったのです。
あのころは、のちのように大きく振りかぶらず腕の上げ方は小さかった。左足の上げ方も小さかった。これを力感のあるフォームに変えたかった。両腕を高く、高く上げて、仁王立ちのようにして、左足も高く上げる。そこからグ~ッと沈み込んでタメを作り、また持ち上げて投げ下ろす。のちにマサカリ投法と名付けていただいた、あのフォームを作り始めるワケです。
マサカリ投法の誕生~全盛期へと
写真は村田vs門田
当時のパ・リーグの強打者はフルスイングが基本。
後に清原との対決ではフルスイングに対してストレートで
勝負したいという気持ちになったと語っています。
野球というスポーツを超越した勝負があったのでしょう。
当時のパ・リーグの強打者はフルスイングが基本。
後に清原との対決ではフルスイングに対してストレートで
勝負したいという気持ちになったと語っています。
野球というスポーツを超越した勝負があったのでしょう。
1976年にはフォークボールを習得する。人並み外れた長い指が生み出す
切れ味鋭い変化は、ことごとく打者のバットに空を切らせた。
同年シーズンは257回を投げて21勝を挙げると同時に、防御率1.82で
最優秀防御率のタイトルを獲得。202奪三振もリーグ最多であった。
捕手に頼らず「ノーサイン」で自分で投球を組み立てていたため、
同年から1979年まで4年連続で2桁暴投を記録した。
1979年は32試合に先発して自己最多の21完投・230奪三振を残す。
1981年には開幕11連勝を飾り、19勝で最多勝のタイトルも獲得し、
鈴木啓示、山田久志、東尾修らと共に1970年代から1980年代の
パ・リーグを代表する投手となった。
1981.11 村田兆治 日米野球 - YouTube
via www.youtube.com
フォークボール習得についての裏話
via www.famitsu.com
当時のフォークの名手・村山実に教えを請うたところ、「24時間ボールを握る」というアドバイスをされ、実践した[10]。指にボールを挟んだまま縄でくくりつけて眠ることで、フォークの握りを体に覚えさせようとしたのである。しかし、あまりの激痛に就寝どころではなくなり、結局一度試しただけで二度とやらなかったという。
こんなエピソードも……
フォークボールの握りを深くしようとするあまり、人差し指と中指の間にナイフで切り込みを入れたこともある。習得後も、右手の中指と人差し指の間に牛乳瓶や特注の鉄の球を挟んだり、ドアを開けるときもノブを中指と人差し指で挟んで開けるなど、日々のトレーニングを欠かさなかった。夫人によれば、村田が中指と人差し指でビール瓶をはさむと、夫人が引っ張っても抜けないという。
こうして生まれたフォークボールと威力バツグンのストレートで
全盛期を築き上げたんですね。
全盛期を築き上げたんですね。
元南海ホークスの野村克也は「村田のフォークボールの癖はすぐ分かったけど(野村によれば、村田がフォークボールを投げるときはモーションに入る前にグラブの中をちらと覗いていたという)、分かっていても打てなかった」
65歳でも落差のあるフォークを投げています。
村田兆治氏、御年65歳、マー君の握りでSFF投げる - YouTube
via www.youtube.com
肘の故障で選手生命の危機~カムバック後の活躍
順調に活躍していましたが、82年に肘の故障。
83年になっても改善が無く、当時としては異例の
トミージョン手術に踏み切ります。
当時は肘にメスを入れることはタブーと考えられて
いましたから、相当な覚悟が必要だったと思います。
83年になっても改善が無く、当時としては異例の
トミージョン手術に踏み切ります。
当時は肘にメスを入れることはタブーと考えられて
いましたから、相当な覚悟が必要だったと思います。
プロ野球選手を志したのは小学5年のとき、父に連れられて広島市民球場へナイターを観戦しに行ったことがきっかけだった。
初めて生で見るプロの試合に鳥肌が立つほど興奮し、それ以来、プロ野球選手以外の将来は考えられなくなったという。
速くて球質が重い、いわゆる剛のつく速球は天賦の才と言ってよく、進学した福山電波工業高校(現:近畿大学附属広島高等学校福山校)時代から、スピードガンがあればその球速は既に152、153km/hをマークしていただろうと言われ[1]、県内でも屈指のピッチャーとして
有名だった
出典:ウィキペディア村田兆治