13球団から勝利とは
日本のプロ野球は、セ・リーグ6球団、パ・リーグ6球団の全12球団で構成されています。しかし、歴代の投手の中には、12球団ではなく「13球団から勝利」という手品のような記録を達成した投手がいます。種明かしをすると、これは2004年の球界再編成により、大阪近鉄バファローズが消滅し、東北楽天ゴールデンイーグルスが誕生したことに起因しています。つまり、この両チームの勝利を別々にカウントしたことで、「13球団勝利」というカラクリが生まれたのです。
この13球団から勝利した投手は、工藤公康、杉内俊哉、寺原隼人の3人です。この中で、工藤だけが特別で、交流戦とは無関係にセ・パ全12球団勝利を収め、その上で楽天にも交流戦で勝利し、トータル13球団を達成しました。
交流戦がなかった時代に全球団に勝利するためには、少なくともセ・リーグ2球団、パ・リーグ2球団に在籍する必要があり、それだけでも至難の業でした。そのため、交流戦と無関係に全球団勝利を達成した投手は、野村収、古賀正明、武田一浩、工藤公康の4人しかいません。
では、工藤の "全球団+1球団勝利" の記録を見てみましょう。
この13球団から勝利した投手は、工藤公康、杉内俊哉、寺原隼人の3人です。この中で、工藤だけが特別で、交流戦とは無関係にセ・パ全12球団勝利を収め、その上で楽天にも交流戦で勝利し、トータル13球団を達成しました。
交流戦がなかった時代に全球団に勝利するためには、少なくともセ・リーグ2球団、パ・リーグ2球団に在籍する必要があり、それだけでも至難の業でした。そのため、交流戦と無関係に全球団勝利を達成した投手は、野村収、古賀正明、武田一浩、工藤公康の4人しかいません。
では、工藤の "全球団+1球団勝利" の記録を見てみましょう。
1982年8月31日 日本ハムファイターズ
工藤は、名古屋電気高校のエースとして甲子園で活躍し、1982年、ドラフト6位で西武ライオンズに入団しました。同じ年に広岡達朗監督も就任し、工藤は1年目の4月から中継ぎとして起用されます。
初登板は、4月10日の阪急戦。その後、中継ぎとして登板を続け、勝敗の記録が初めてついたのが8月でした。まず、8月13日の阪急戦でプロ初敗北。そして、8月31日の日本ハム戦でついにプロ初勝利を記録しました。この試合では、5回途中から先発の西本和人をリリーフし、8回まで3回1/3を無安打無失点と好投。当時4番打者だった田淵幸一が21号3ランホームランを放ち、試合を決めました。登板22試合目にして、初めての勝利投手です。
プロ1年目の1982年は、27試合に登板し、1勝1敗 防御率3.41。日本ハムとのプレーオフ第2戦でも勝利投手となり、好成績で1年目を終えました。
初登板は、4月10日の阪急戦。その後、中継ぎとして登板を続け、勝敗の記録が初めてついたのが8月でした。まず、8月13日の阪急戦でプロ初敗北。そして、8月31日の日本ハム戦でついにプロ初勝利を記録しました。この試合では、5回途中から先発の西本和人をリリーフし、8回まで3回1/3を無安打無失点と好投。当時4番打者だった田淵幸一が21号3ランホームランを放ち、試合を決めました。登板22試合目にして、初めての勝利投手です。
プロ1年目の1982年は、27試合に登板し、1勝1敗 防御率3.41。日本ハムとのプレーオフ第2戦でも勝利投手となり、好成績で1年目を終えました。
工藤公康
工藤公康 1982.10.30
via www.youtube.com
1983年5月15日 近鉄バファローズ
プロ2年目の1983年も、中継ぎ登板を中心に活躍します。5月15日の近鉄戦では、10対4で大差のついた6回から登板し、2回無失点で勝利投手に。先発の杉本正が4回途中で降板していたため、勝利投手の権利が工藤のところに転がり込み、ある種棚ぼたでの勝利でした。
1983年5月26日 阪急ブレーブス
次の勝利も同じ月で、5月26日の阪急戦。4回途中から登板し、2回を自責点0で粘ると、その間に味方打線が勝ち越し、勝利投手となりました。奇しくも、この日も先発は杉本正で3回途中で降板していました。
プロ2年目の1983年は、23試合に登板し、2勝0敗 防御率3.24。実は先発登板が2試合ありましたが、8月4日の南海戦は3回1/3を2失点、10月14日の日本ハム戦は3回0/3を2失点で、勝敗はつきませんでした。先発で初勝利を記録するのは、さらに2年先のことです。
プロ2年目の1983年は、23試合に登板し、2勝0敗 防御率3.24。実は先発登板が2試合ありましたが、8月4日の南海戦は3回1/3を2失点、10月14日の日本ハム戦は3回0/3を2失点で、勝敗はつきませんでした。先発で初勝利を記録するのは、さらに2年先のことです。
1985年7月9日 南海ホークス
プロ3年目の1984年は、わずか9試合の登板で勝敗なし、防御率2.92。アメリカのマイナーリーグに留学し、翌1985年から主力投手として活躍するようになります。
プロ4年目の1985年は、シーズン前半は中継ぎ登板が中心となるも、後半は先発ローテーションの一人として活躍します。7月9日の南海戦では、9回を2失点に抑え、ついに先発初勝利、初完投勝利を同時に記録しました。
プロ4年目の1985年は、シーズン前半は中継ぎ登板が中心となるも、後半は先発ローテーションの一人として活躍します。7月9日の南海戦では、9回を2失点に抑え、ついに先発初勝利、初完投勝利を同時に記録しました。
1985年8月26日 ロッテオリオンズ
8月26日のロッテ戦も、先発として登板。9回を2失点に抑え、早くもプロ入り4度目の完投勝利を果たしました。ついに残り1チームだったロッテに勝利し、自球団を除くパ・リーグ全球団勝利の達成です。
プロ4年目の1985年は、34試合(先発14試合)に登板し、8勝3敗 防御率2.76。チームのリーグ優勝に貢献し、最優秀防御率のタイトルも獲得しました。翌1986年からは、森祗晶監督が就任。広岡監督から森監督へとつながる、西武の黄金期を迎えました。
プロ4年目の1985年は、34試合(先発14試合)に登板し、8勝3敗 防御率2.76。チームのリーグ優勝に貢献し、最優秀防御率のタイトルも獲得しました。翌1986年からは、森祗晶監督が就任。広岡監督から森監督へとつながる、西武の黄金期を迎えました。
工藤公康
工藤公康 1987.10.26
via www.youtube.com
1995年5月6日 西武ライオンズ
1995年、工藤はFA権を行使して、石毛宏典と共に、王貞治監督が就任した福岡ダイエーホークスに移籍します。当時のダイエーは南海時代から続く万年Bクラスの弱小球団で、それを常勝集団へと変えて行ったのが工藤や、先に移籍していた秋山幸二らだったといえます。
工藤は開幕投手に抜擢され、4月1日の古巣西武との開幕戦に登板。味方チームが初回に7点を挙げ楽勝ムードの中、なんと4回途中8失点を許して逆転され降板してしまいます。その後、味方チームが乱打戦を制しますが、苦いダイエーでの初戦となりました。ただ、以後は絶好調で、結局、開幕から6連勝。中でも、5月6日の西武戦では古巣を相手に初勝利を挙げ、ついにパ・リーグ全球団勝利を達成しました。
ダイエー1年目の1995年は、22試合に先発登板し、12勝5敗 防御率3.64。しかし、プロ野球人生で初めてのBクラスを経験しました。
残るは、セ・リーグ6球団です。
工藤は開幕投手に抜擢され、4月1日の古巣西武との開幕戦に登板。味方チームが初回に7点を挙げ楽勝ムードの中、なんと4回途中8失点を許して逆転され降板してしまいます。その後、味方チームが乱打戦を制しますが、苦いダイエーでの初戦となりました。ただ、以後は絶好調で、結局、開幕から6連勝。中でも、5月6日の西武戦では古巣を相手に初勝利を挙げ、ついにパ・リーグ全球団勝利を達成しました。
ダイエー1年目の1995年は、22試合に先発登板し、12勝5敗 防御率3.64。しかし、プロ野球人生で初めてのBクラスを経験しました。
残るは、セ・リーグ6球団です。
工藤公康
28 工藤公康★日本シリーズ新記録13奪三振で完封
via www.youtube.com
2000年4月4日 中日ドラゴンズ
入団以来18年間、パ・リーグ一筋だった工藤ですが、当時のダイエー球団代表の悪質な介入行為に不信感を抱き、読売ジャイアンツへの移籍を決断します。1999年はチームをリーグ優勝・日本一に導き、パ・リーグMVPに輝いたばかりの年で、ファンにとっては正に青天の霹靂でした。
巨人1年目となった2000年は、開幕4戦目となる4月4日の中日戦で先発デビュー。7回13奪三振1失点の好投で、セ・リーグ初登板初勝利を飾りました。
巨人1年目となった2000年は、開幕4戦目となる4月4日の中日戦で先発デビュー。7回13奪三振1失点の好投で、セ・リーグ初登板初勝利を飾りました。