この記事の目次
- 1980年代で最も売れたシングル『ダンシング・オールナイト』
- 【動画】もんた&ブラザーズ『ダンシング・オールナイト』
- もんたよしのり 本名:門田 頼命(かどた よしのり)
- もんたの個性的なハスキーボイスは危険な賭けの産物だった
- 苦労に苦労を重ねて生み出した『ダンシング・オールナイト』
- 「もんたよしのりは一発屋だ」と言われるが…。
- 1983年、もんたが西城秀樹に提供した『ギャラドゥ』が大ヒット
- もんたは、役者としても活動。映画主演もしていた。
- 1995年、マラリアで死に掛けた、もんたよしのり。
- 「もんたよしのり」の娘、こむぎはアイドル→ダンサーとして活躍
- 2009年、もんたよしのりが窪塚洋介とコラボ!
- 2010年、ダンシング・オールナイトの替え歌をアンタッチャブル山崎が歌う。
- もんたよしのり公式ブログ
1980年代で最も売れたシングル『ダンシング・オールナイト』
その翌週には同チャートで1位を獲得し、そこから10週連続で1位を独占した。
TBS系音楽番組『ザ・ベストテン』でも通算7週1位を獲得。
年末には第11回日本歌謡大賞で放送音楽特別賞、次いで第13回全日本有線放送大賞で大賞を獲得。
第22回日本レコード大賞でも金賞を受賞するなどの賞レースで数々の賞を獲得した。
1980年代(集計期間:1979年12月~1989年11月)
オリコンシングル売り上げランキング1位。
累計売上は200万枚。
【動画】もんた&ブラザーズ『ダンシング・オールナイト』
もんた&ブラザーズ ダンシングオールナイト
小柄な体型と整った顔立ちからは想像できないパワフルな歌唱で、聴く人の度肝を抜いた。
ダンシング・オールナイト/もんたよしのり(92年OA) - YouTube
もんたよしのり 本名:門田 頼命(かどた よしのり)
兵庫県神戸市東灘区出身
1968年 高校を中退し、本格的に音楽活動を開始。
1970年 全日本フォークジャンボリーに中川イサトらと共に「インスタンツ」として出演。
1971年 上京し、シングル「この足の鎖ひきちぎりたい」でソロ歌手としてデビュー。
1979年 東京での活動に限界を感じ実家の神戸へ戻るも、音楽活動をあきらめきれず作曲活動を続ける。
1980年 自身最後のチャンスとの決意で「もんた&ブラザーズ」として再デビューし、「ダンシング・オールナイト」をリリース。
もんたの個性的なハスキーボイスは危険な賭けの産物だった
しかし、ヒットが出ず悩んで悩んで危険であることを承知で賭けに出る。
特徴的な声で目立つことを意図して声を潰そうと、布団に口を押し当てて3日間叫び続けた。
そして、喉を潰し独特のしわがれたハスキーボイスが生まれたのだった。
苦労に苦労を重ねて生み出した『ダンシング・オールナイト』
スタートはR&Bグループで“神戸のジェームス・ブラウン”と呼ばれていたが、歌手として今後生きていくためにどうしてもメジャーシーンでのヒットが欲しかった。
そこで作曲に専念するため2年間充電。
100曲を超す作品の中から選んでシングルカットした曲がこの『ダンシング・オールナイト』だった。
レコーディング当日の朝には、ヒットを祈念し水浴びをして臨んだという。
「もんたよしのりは一発屋だ」と言われるが…。
しかし、次作「赤いアンブレラ」や後の「デザイアー」もオリコンチャートでTOP10入り、累計売上も20万枚以上のヒットを記録している。
赤いアンブレラ - YouTube
DESIRE もんた&ブラザーズ - YouTube
1983年、もんたが西城秀樹に提供した『ギャラドゥ』が大ヒット
タイトルは、「gal un do」や「gal and do」という意味であると所属事務所側がコメントしていたが、この曲を作詞したもんたよしのりによると、デタラメ英語であると語っている。
西城秀樹--ギャランドゥ
歌い方・踊り・振付け・表情。
全てが一体となって曲の持つ華やかさを完全に引き出している。
もんたよしのり--ギャランドゥ
強烈な個性を持つもんたが歌った「ギャランドゥ」と比較しても、ヒデキの「ギャランドゥ」は打ち消されることなく独自の存在感を放っている。
こうなると他のもんたソングも歌ってもらいたくなる…。
作曲:もんたよしのり
1980年4月21日発売。
ソロ歌手としては思うようなヒットを出せなかったもんたよしのりが、レコード会社と再起をかけてとの思いで結成した5人組バンド・もんた&ブラザーズのデビュー曲。