養護施設「ねむの木学園」を設立した歌手・女優の宮城まり子さん死去。
昭和中期に歌手・女優として活躍し、その後肢体不自由児の養護施設「ねむの木学園」の学園長を務めた宮城まり子さんが、3月21日に亡くなっていたことが明らかとなりました。93歳でした。
第一報はこちらです!
日本で初めての肢体不自由児の養護施設「ねむの木学園」を運営してきた女優の宮城まり子さんが21日、亡くなりました。93歳でした。https://t.co/sl0KQSvb6g
— 毎日新聞 (@mainichi) March 22, 2020
宮城さん1927年、東京都生まれ。小学校を卒業後吉本興業に入社、歌手及び舞台女優としてのキャリアをスタートさせました。そして1950年代には「毒消しゃいらんかね」「ガード下の靴みがき」といった流行歌で一躍人気歌手となり、その後女優・声優業に進出。さらに1968年に肢体不自由児の養護施設「ねむの木学園」を設立すると、その理事長・園長として福祉の世界で辣腕を振るいました。その功績が認められ、2012年には瑞宝小綬章を受章。また、東京都の名誉都民にもなっています。
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宮城まり子の芸能活動を振り返る!!
社会福祉の分野で著名な宮城さんですが、歌手・女優としても特筆すべき実績を数多く残しています。ここでは、彼女の芸能分野の活動を軽く振り返ってみましょう。
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歌手として
宮城さんが歌手としてデビューしたのは1950年のこと。テイチクより発売された「なやましブギ」でデビューを飾り、1953年に発売された「毒消しゃいらんかね」で一躍流行歌手の仲間入りに。その後も前述の「ガード下の靴みがき」の他に、「てんてん娘」「納豆うりの唄」などのヒットを輩出し、NHK紅白歌合戦にも8回出場しています。
毒消しゃ、いらんかネ 宮城まり子 SPレコード 蓄音機
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女優として
女優業に進出したのは、歌手として一世を風靡していた1950年代後半のこと。日本初のカラー長編アニメ映画として知られる「白蛇伝」にて、森繁久彌らとともに声優として出演。さらに1958年には「12月のあいつ」で芸術祭賞、1959年には「まり子自叙伝 花咲く星座」でテアトロン賞を受賞するなど、賞レースにも参戦する女優として頭角を現しました。
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1950年代から1960年代後半にかけて上述の芸能活動でその名を轟かせた宮城さんですが、1968年に前述の「ねむの木学園」を設立して以降は、社会福祉分野での活動が中心となり、1997年には身体障害者療護施設「ねむの木のどかな家」を開設、さらに美術館などを併設した「ねむの木村」を開設。その一方で1974年には映画「ねむの木の詩」を制作したり、チャリティー番組イベント「宮城まり子のチャリティーテレソン」で障害者の社会参加を呼び掛けるなど、福祉とメディアの橋渡し役として活躍を続けていました。福祉業界・芸能界それぞれに大きな影響を与えた宮城さん。彼女の功績はこれからも語り継がれていくことでしょう。ご冥福をお祈り申し上げます。