はじめに
松下幸之助と言えば《経営の神様》である。
そのノウハウや名言は今でもなおとりあげられ、老若男女問わず人生にアドバイスをくれる。
しかしさて、松下幸之助とは実際にはいかなる人だったのか?
彼が生まれた時代にいた、意外なる同年の人とは?
創業直後の松下をとりまく環境はいかなるものだったのか?
今回はそのあたりにピントをあわせてご紹介しよう。
そのノウハウや名言は今でもなおとりあげられ、老若男女問わず人生にアドバイスをくれる。
しかしさて、松下幸之助とは実際にはいかなる人だったのか?
彼が生まれた時代にいた、意外なる同年の人とは?
創業直後の松下をとりまく環境はいかなるものだったのか?
今回はそのあたりにピントをあわせてご紹介しよう。
出生
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当たり前のように明治の生まれである。なんと芥川龍之介の2コ下ときている。
この時代は文学者誕生ラッシュとでも言うのか、詩人の西脇順三郎、芥川の親友の小島政二郎、自然主義文学の葉山嘉樹、小説家瀧井孝作、怪奇小説化江戸川乱歩――と名だたる面々が生まれている。
そのなかにぽろっとトヨタ自動車創設者の豊田喜一郎、そして松下幸之助の名前が連なっている。
この時代は文学者誕生ラッシュとでも言うのか、詩人の西脇順三郎、芥川の親友の小島政二郎、自然主義文学の葉山嘉樹、小説家瀧井孝作、怪奇小説化江戸川乱歩――と名だたる面々が生まれている。
そのなかにぽろっとトヨタ自動車創設者の豊田喜一郎、そして松下幸之助の名前が連なっている。
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丁稚奉公と言い切っている経歴は特殊と言えば特殊だろう。
同様の経歴を持っている人間で、似たよな例で言うとやはり本田宗一郎だろうか。
本田宗一郎は小学校を卒業後、アート金属工業に入社したのが大正時代のこと。
主な仕事は社長の子供のお守りだったと言うから、客のタバコを買いに走っていた松下幸之助とはいい勝負(?)だったかもしれない。
同様の経歴を持っている人間で、似たよな例で言うとやはり本田宗一郎だろうか。
本田宗一郎は小学校を卒業後、アート金属工業に入社したのが大正時代のこと。
主な仕事は社長の子供のお守りだったと言うから、客のタバコを買いに走っていた松下幸之助とはいい勝負(?)だったかもしれない。
創業
中内功も本田宗一郎も盛田昭夫も、創業する前には別の会社での下積みや研究の時代というものがあった。
ところが松下はちょっと毛色がちがうようである。
ところが松下はちょっと毛色がちがうようである。
大阪府東成郡鶴橋町猪飼野(現:大阪市東成区玉津2丁目)の自宅で、妻むめのと、その弟の井植歳男(営業担当、後に専務取締役、戦後に三洋電機を創業して独立)、および友人2名の計5人で、同ソケットの製造販売に着手。しかし、新型ソケットの売り上げは芳しくなく、友人2名は幸之助のもとを去った
なんともものがなしい話ではないか。
中内、本田が修行元の店主から独立を許され、盛田・井深も金銭のやりくりに困りながらも《自由闊達にして愉快なる理想工場》と標榜していたのとはだいぶ雰囲気が異なっている。
もっともこの時は扇風機の部品の大量注文を受けたことにより窮地を脱したらしいのだが、こうして見ると大企業のスタートとしてはだいぶ不安材料が多かったようである。
もっともこのあとは、無事に事業を拡大していき、《松下電気器具製作所》《松下電器製作所》《松下電器産業株式会社》と名前を更新すること数度にわたる。
中内、本田が修行元の店主から独立を許され、盛田・井深も金銭のやりくりに困りながらも《自由闊達にして愉快なる理想工場》と標榜していたのとはだいぶ雰囲気が異なっている。
もっともこの時は扇風機の部品の大量注文を受けたことにより窮地を脱したらしいのだが、こうして見ると大企業のスタートとしてはだいぶ不安材料が多かったようである。
もっともこのあとは、無事に事業を拡大していき、《松下電気器具製作所》《松下電器製作所》《松下電器産業株式会社》と名前を更新すること数度にわたる。
戦争
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しかしここでちょっとブレーキがかかってしまう。
このシリーズではお馴染みとなっている、《戦争》との関わり方である。
戦争時にいまだ創業に至っていなかった本田、盛田とは異なり、松下幸之助はすでに創業済の身分であった。
すると当然(?)、軍部からの軍需品生産の依頼が来る。
これは、いまだに考察がまとまっていないのだが産業にとって幸福か不幸かで言えばどちらかなのだろう。
より具体的に言うと、利益であったか不利益であったか、が気になっている。
もっともそれはケースバイケースということであって、こと第二次世界大戦における日本の場合は一概に言うのは難しいのだろうという気もする。
さて松下電器の顛末から言うと、どうも手放しで喜べる軍需品生産ではなかったようだ。
というのも、ここで松下は
このシリーズではお馴染みとなっている、《戦争》との関わり方である。
戦争時にいまだ創業に至っていなかった本田、盛田とは異なり、松下幸之助はすでに創業済の身分であった。
すると当然(?)、軍部からの軍需品生産の依頼が来る。
これは、いまだに考察がまとまっていないのだが産業にとって幸福か不幸かで言えばどちらかなのだろう。
より具体的に言うと、利益であったか不利益であったか、が気になっている。
もっともそれはケースバイケースということであって、こと第二次世界大戦における日本の場合は一概に言うのは難しいのだろうという気もする。
さて松下電器の顛末から言うと、どうも手放しで喜べる軍需品生産ではなかったようだ。
というのも、ここで松下は
1943年4月に松下造船株式会社を設立し、海運会社出身の井植歳男社長の下で、終戦までに56隻の250トンクラスの中型木造船を建造した。次いで同年10月には盾津飛行場そばに松下航空機株式会社を設立し、空技廠の技術指導により強化合板構造の練習用木製急降下爆撃機『明星』を終戦までに7機試作
と《活躍》してしまったのである。
その結果、戦後にGHQによって制限会社への指定を受けてしまう。
いわゆる《財閥解体》のあおりを受けてしまったのである。
それにしても友人2名が去って一大事になっていた頃に比べると、短い間にそれだけの対象になる大企業に育っていたというのが驚きである。
ちなみに、といって補足するのはあんまりかもしれないが、このとき松下含め役員の大半が戦争協力者として公職追放処分を受けてしまっている。
この結果をもってして良い利益だったと手放しで喜べる人もそうはいないだろう。
その結果、戦後にGHQによって制限会社への指定を受けてしまう。
いわゆる《財閥解体》のあおりを受けてしまったのである。
それにしても友人2名が去って一大事になっていた頃に比べると、短い間にそれだけの対象になる大企業に育っていたというのが驚きである。
ちなみに、といって補足するのはあんまりかもしれないが、このとき松下含め役員の大半が戦争協力者として公職追放処分を受けてしまっている。
この結果をもってして良い利益だったと手放しで喜べる人もそうはいないだろう。
PHP研究所
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戦後GHQといざこざがある一方で進めるところは進めていくのが腕の良い経営者というものだろう。
1946年、松下はPHP研究所を設立させる。
1946年、松下はPHP研究所を設立させる。
「PHP」とは、「Peace and Happiness through Prosperity」(繁栄によって平和と幸福を)の頭文字をとった語で、「物心両面の繁栄により、平和と幸福を実現していく」という松下幸之助の願いのもと、1946年(昭和21年)11月に創設された。