「ビルマの竪琴」
本で読んだ人、あるいは1985年に上映された映画で鑑賞した人が多かったかと思います。
映画では「埴生の宿」の音楽が、 さらにその世界観を深めてくれました。
当時は「戦争映画」として鑑賞し、悲惨さや残酷さという側面よりも、その無情さをストレートに感じた作品だったような気がします。
映画では「埴生の宿」の音楽が、 さらにその世界観を深めてくれました。
当時は「戦争映画」として鑑賞し、悲惨さや残酷さという側面よりも、その無情さをストレートに感じた作品だったような気がします。
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「ビルマの竪琴」初めに映画化されたのは1956年でした
「ビルマの竪琴 第一部」(1956年1月21日公開、61分)
「ビルマの竪琴 第二部・帰郷篇」(1956年2月12日公開、83分)
1956年 (EN)、ヴェネツィア国際映画祭サン・ジョルジョ賞受賞。1957年、アカデミー外国語映画賞にもノミネートされた。なお、現存するのは「第一部」「第二部」を編集した「総集編」である。
市川崑の述懐によると1956年の1月公開が決定していたが、ビルマロケの許可がなかなか下りず、急きょ国内撮影分のみを63分の第一部として製作し、それを公開した。
その後、1956年1月に水島役の安井昌二のみが同行して一週間のビルマロケを行った。市川と日活の当初の約束では、2月に完全版の総集編(当然第一部とは中身が一部重複する)を封切る予定だったが、会社側は「すでに第一部のポジを何十本も焼いていてもったいない」とクレーム。
このため、封切り時点で「総集編」と「第一部+第二部」の上映が混在し、「総集編」は都市部での限定公開、それ以外の地方は「第一部+第二部」の上映だった。このことが禍根となり、市川崑は日活を辞めたという。なお、本作はカラー撮影の予定があったが、機材がロケに適さないという経緯でモノクロに変更された。
Burmese Harp (ビルマの竪琴)Part-1 - YouTube
Burmese Harp (ビルマの竪琴)Part-1 Japan-Myanamr movie
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Burmese Harp (ビルマの竪琴)Part-2 - YouTube
Japan_Myanmar movie based upon a soldier during World war 2
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本稿では、1985年に上映された映画版を中心に「ビルマの竪琴」を振り返ろうと思います。
1985年に上映された「ビルマの竪琴」
映画予告編『ビルマの竪琴』+唱歌 - YouTube
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監督は1956年作品と同様に市川崑。
1956年にも上映された作品を29年後に再び映画化しました。
1956年にも上映された作品を29年後に再び映画化しました。
1985年7月20日公開
1956年版に使用された脚本を元に話の大筋は作られているが、冒頭の英国兵のシークエンスや、中盤の水島の行動の詳細などが加えられている。
また、本作ではコミカルな演技や描写も演出として加えられている。本作の海外ロケ地はビルマでなくタイであるが、これは制作当時、ビルマが騒乱状態で治安が悪く、ロケが不可能だったためであるが、ビルマの寝仏は屋内安置であるため、見栄えとしては結果としてタイロケで正解だったと、市川は後に述懐している。
また、本作ではコミカルな演技や描写も演出として加えられている。本作の海外ロケ地はビルマでなくタイであるが、これは制作当時、ビルマが騒乱状態で治安が悪く、ロケが不可能だったためであるが、ビルマの寝仏は屋内安置であるため、見栄えとしては結果としてタイロケで正解だったと、市川は後に述懐している。
水島上等兵(中井貴一)、井上隊長(石坂浩二)、伊東軍曹(川谷拓三)、小林上等兵(渡辺篤史)、岡田上等兵(小林稔侍)、三角山守備隊々長(菅原文太)といった、振り返ると錚々たるキャスティングでした。
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作中、「埴生の宿」「仰げば尊し」が、しみじみと心に伝わってきます。
映画予告編『ビルマの竪琴』+唱歌
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1946年の夏から書き始め童話雑誌「赤とんぼ」に1947年3月から1948年2月まで掲載された。
ビルマ(現在のミャンマー)を舞台としている。市川崑の監督によって、1956年と1985年に2回映画化された。各国語にも訳されている。
出家し僧になった主人公の水島上等兵が竪琴を奏でる場面があるが、現地の上座部仏教では、出家者(僧侶)は、戒律により音楽演奏は禁じられている。そのため、後年大阪人情喜劇の会が制作した舞台演劇「ミャンマーの唄声」(出演:岸田敏志、曾我廼家八十吉、紅萬子、稲田慎太郎、副島新五他)では、「水島はあんなに好きだった音楽を捨ててまで僧になった」という設定となった。
著者はこの物語は空想の産物でありモデルもないが示唆になった話はあると記していたが、20数年後に武者一雄が著作した本が出版され宣伝された後に水島上等兵のモデルは、ビルマで終戦を迎え、復員後僧侶になった群馬県利根郡昭和村の雲昌寺前住職 中村(武者)一雄と言われるようになった。