フリオ・フランコは歴代でも有数のバリバリメジャーリーガーの助っ人
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1978年にフィラデルフィア・フィリーズと契約。1982年にメジャーデビュー。1988年から1991年にかけてシルバースラッガー賞を受賞。1991年には打率.341で首位打者を獲得している。
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メジャー通算2586安打は、ドミニカ共和国出身者としてエイドリアン・ベルトレ、ブラディミール・ゲレーロに次ぐ歴代3位。また、日本のプロ野球で286安打、韓国プロ野球で156安打、メキシカンリーグで316安打、ドミニカウィンターリーグで267安打、メジャー傘下のマイナーリーグで618安打を放っており、プロ26年間で公式戦通算4229安打を記録している。
バットのグリップを上に掲げ、バットの先を投手に向ける非常に個性的なフォームが特徴。この打撃フォームをはじめたきっかけは「神のお告げがあったから」だと語っている。典型的なアベレージヒッターであり、1991年には首位打者を獲得。MLB通算打率も.298と高い。
足も速く、かつては30盗塁以上を何度も記録していたが、1992年に膝の大怪我をしてしまい、それ以降はほとんど盗塁は出来なくなった。しかし40歳後半になってからも、少ないながら毎シーズン盗塁を記録した。
メジャーでも有数の選手だったフランコ・何故ロッテに??
1994年の8月12日、労使交渉のもつれから、MLB選手会はストライキに突入しました。スト自体は初めてのことではなく、中でも81年のそれはシーズン途中の約2ケ月の長期に亘りました。しかし、20年前のストはそれどころではなく、残シーズンのみならずポストシーズンも中止。
球団側が年棒の高騰を抑えようとサラリーキャップ制度を導入しようとしたことによるストライキ。選手年棒に上限を設けようとするこの制度は勿論選手会の反対を受けました。
94年残り試合、95年まる1年という長期間のストライキは選手のキャリアに影響があるわけです。
そういった事情から、ケビンミッチェルやシェーンマックなどの選手は
日本でのプレーを選択します。
フリオ・フランコもその一人でした。
94年残り試合、95年まる1年という長期間のストライキは選手のキャリアに影響があるわけです。
そういった事情から、ケビンミッチェルやシェーンマックなどの選手は
日本でのプレーを選択します。
フリオ・フランコもその一人でした。
大リーグでこれだけキャリアのある選手が、まだメジャーでオファーのあるうちに日本でプレーしたいという希望を持つのは稀もいいところだった。本人いわく、90年に日米野球で来日し、西武の秋山幸二外野手、清原和博内野手のプレーを見て「日本にメジャーで今すぐにプレーできる選手が1チーム2人もいる。違う環境で野球をして視野を広げたい。オレもこのチームでやってみたい」と西武入りを熱望。94年に大リーグがストライキに突入したことに失望し、本格的に日本移籍を考え、代理人に売り込みを依頼した。
ロッテには2度に渡り在籍していた
バレンタインが広岡達朗GMとの確執で解任されると、3割6厘を打ったフランコも退団。「いつか必ずロッテに帰ってくる」と言い残してメジャーに復帰。
1998.5.8 ロッテvs日本ハム4回戦 4/22 - YouTube
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約束を果たしたのがその3年後の98年。近藤昭仁監督から主将の肩書きをもらった。積極的に若手にアドバイスを送り、チームのために尽くしたが、2度目の来日も1年で退団。2割9分、18本塁打、77打点の数字を残しながらチームは最下位となったことで「貢献度が低い」という評価を球団は下してのけんか別れだった。
選手としての終わりが見えない!! いまだ現役
日本に在籍した98年以降もメジャー、韓国、メキシコなどのリーグを渡り歩きました。最終的には2008年、メキシカンリーグで引退をしています。
日本はもちろん、メジャーでも韓国でもプロ意識の高さは尊敬されていました。
日本はもちろん、メジャーでも韓国でもプロ意識の高さは尊敬されていました。
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史上最年長での代打ホームランや史上最年長での1試合2盗塁など「史上最年長」と付く記録の多くを塗り替えた。食事を脂肪に変えず、エネルギーを欠乏させないために1日に5〜6食、少ない量の食事を摂るボディビル式の調整法などで、45歳の時チームメートをして「フランコほどコンディションのよい選手は他にいない」といわしめたほどである。
出身地:アト・マジョール州アト・マジョール・デル・レイ
生年月日:1958年8月23日(56歳)(公称)
身長:約185.4 cm
体重:約95.3 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 二塁手、遊撃手、一塁手
プロ入り 1978年
初出場 MLB / 1982年4月23日
NPB / 1995年4月1日
KBO / 2000年4月5日
最終出場
MLB / 2007年9月17日
NPB / 1998年10月11日
引用元:ウィキペディアフリオ・フランコ