「藤波、俺はお前のかませ犬じゃない!」
プロレスファンなら誰もが知る、長州力ブレイクのきっかけとなった事件
1982年、後楽園ホールで行われた6人タッグマッチ「猪木、藤波、長州組VSブッチャー、アレン、ジョーンズ組」の試合中、長州力が藤波辰巳に「俺はおまえのかませ犬じゃない!」と言い放った事件。
長州が実際に発した言葉は「なんで(入場の際に)オレ(長州)がオマエ(藤波)の前を歩かなきゃいけないんだ、なんで(メキシコで当時実力No.1のカネックを破り、UWA世界ヘビー級王座を奪取し凱旋してきた)オレ(長州)がオマエ(藤波)の前に(試合前での)コールされなきゃいけないんだ」であった。
長州 藤波 かませ犬発言の試合
via www.youtube.com
「かませ犬発言」は後日
プロレスのタッグマッチなどでは格下が先に入場し先にリングアナウンサーに紹介されるものです。
当時の藤波辰巳は先輩かつ対長州戦で6戦6勝、さらにはWWFインターナショナル・ヘビー級王座でもあり、この時点では順当な序列であったと思われます。
この序列を打ち砕くべく長州が動いた事件。この直後、プロレス雑誌「ビッグ・レスラー」82年12月号の単独インタビューの中で長州が初めて「かませ犬」という例えを使いました。
その後、当時の新日本プロレス実況を行っていた古舘伊知郎アナが「かませ犬」という言葉を頻繁に使い浸透していったのが真相のようです。
当時の藤波辰巳は先輩かつ対長州戦で6戦6勝、さらにはWWFインターナショナル・ヘビー級王座でもあり、この時点では順当な序列であったと思われます。
この序列を打ち砕くべく長州が動いた事件。この直後、プロレス雑誌「ビッグ・レスラー」82年12月号の単独インタビューの中で長州が初めて「かませ犬」という例えを使いました。
その後、当時の新日本プロレス実況を行っていた古舘伊知郎アナが「かませ犬」という言葉を頻繁に使い浸透していったのが真相のようです。
「革命戦士」としてブレイクするまでの長州力の歩み
柔道からレスリングへ、ミュンヘンオリンピックにも出場
人気では藤波辰巳、木村健悟の後塵を拝すことに
1974年8月8日、VSエル・グレコのデビュー戦をサソリ固めによる勝利で飾った長州。
しかし長髪全盛の時代にパンチパーマで無骨なファイトだった長州は人気が出ず、精悍で女性受けする藤波辰巳、木村健悟の後塵を拝すことに。
坂口征二と共にNWA北米タッグ王座を保持したものの脇役という印象は拭い去れずに。
同タイトルもアントニオ猪木の提唱するIWGP構想により返上となりました。
しかし長髪全盛の時代にパンチパーマで無骨なファイトだった長州は人気が出ず、精悍で女性受けする藤波辰巳、木村健悟の後塵を拝すことに。
坂口征二と共にNWA北米タッグ王座を保持したものの脇役という印象は拭い去れずに。
同タイトルもアントニオ猪木の提唱するIWGP構想により返上となりました。
かませ犬発言から一躍ブレイク、革命戦士へ
前述の「かませ犬発言」の後、当時の体制に反旗を翻して師と仰ぐマサ斎藤やキラー・カーンと共に「革命軍」を結成。
そこにアニマル浜口、寺西勇、小林邦昭、谷津嘉章らも合流して「維新軍」を結成することに。
そこにアニマル浜口、寺西勇、小林邦昭、谷津嘉章らも合流して「維新軍」を結成することに。
【監獄レスラー・マサ斎藤】その活躍のすべて - Middle Edge(ミドルエッジ)
昭和の新日本プロレスをささえた名バイプレイヤー・マサ斎藤。猪木・藤波といった正規軍と真っ向から対決し、数々の名勝負を生み出しました。今回はそんなマサ斎藤に注目してみよう!!
当時はなんと「ワールドプロレスリング」(テレビ朝日)の視聴率が20%を超えるという、空前の新日本プロレスブームを巻き起こすこととなったのです。
「名勝負数え唄」と呼ばれた長州VS藤波
長州は長髪にし日焼けしてイメージチェンジ。
1981年末に全日本プロレスに転出したスタン・ハンセンのウエスタン・ラリアットを真似た「リキ・ラリアット」を頻繁に使うように。
1981年末に全日本プロレスに転出したスタン・ハンセンのウエスタン・ラリアットを真似た「リキ・ラリアット」を頻繁に使うように。
via number.ismcdn.jp
【炎の飛龍】昭和の死闘をドラゴン殺法で戦い抜いた藤波辰爾の掟破りなエピソード - Middle Edge(ミドルエッジ)
新日本プロレス旗揚げ時より参戦し、WWWFジュニアヘビー級王座ヘビー級王者を経てヘビー級に転向。数々のオリジナルの必殺技で何度も腰にチャンピオンベルトを巻き輝かしい栄光を積み重ねて新日本の代表取締役社長まで登り詰めた。相手の必殺技を盗む「華麗なる盗人」と呼ばれた藤波辰爾の「掟破り」エピソードを紹介。
当時ニューヨークにて発掘されたWWFインターナショナル・ヘビー級王座を巡って藤波と「名勝負数え唄」といわれる連戦を展開、1983年4月3日には藤波をピンフォールで破り王座奪取します。
この試合は同年のプロレス大賞ベストバウトを獲得。
この試合は同年のプロレス大賞ベストバウトを獲得。
以降も両者の「名勝負数え唄」は続き、1984年まで続く長州力VS藤波辰巳のシングル12戦では
長州 4勝
藤波 4勝
引分 4戦
と、お互いに一歩も譲らない展開でした。
長州 4勝
藤波 4勝
引分 4戦
と、お互いに一歩も譲らない展開でした。
高校からレスリングに転向し国体優勝。ミュンヘンオリンピックには母国・韓国の代表として出場し、日本のオリンピック代表だったジャンボ鶴田をライバル視。
スカウトによって専修大学卒業と同時に新日本プロレスに入門。