【ジャンボ鶴田】強すぎた怪物レスラーの足跡を辿る!数々の激闘を繰り広げた完全無欠のエース!!
2020年2月3日 更新

【ジャンボ鶴田】強すぎた怪物レスラーの足跡を辿る!数々の激闘を繰り広げた完全無欠のエース!!

1980~1990年代の日本プロレスマットで、最強の日本人レスラーと言われたジャンボ鶴田。スタン・ハンセンや天龍源一郎、三沢光晴、そして長州力らとの激闘の記憶はいまだ色褪せることはありません。全日本プロレスの完全無欠のエースと呼ばれたジャンボ鶴田、そのナチュラルな強さを足跡とともに振り返りましょう。

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【完全無欠のエース】ジャンボ鶴田

【完全無欠のエース】ジャンボ鶴田

ジャンボ 鶴田(1951年3月25日 - 2000年5月13日)は、日本のプロレスラー。本名・旧リングネーム:鶴田 友美。

三冠ヘビー級王座の初代王者であり、日本人初のAWA世界ヘビー級王者(第30代)。
ミュンヘンオリンピック、レスリンググレコローマンスタイル最重量級代表を経て全日本プロレスリング入り、ジャイアント馬場後継の次の時代の大型エースとして期待され1980年代、トップレスラーとして活躍。
B型肝炎を発症したことにより第一線を退き、その後は桐蔭横浜大学、中央大学、慶應義塾大学で非常勤講師を務めるなど、教育者としても活躍。

ニックネームは「若大将」のち「怪物」「完全無欠のエース」。
座右の銘である「人生はチャレンジだ、チャンスは掴め」は、プロレスの師であるジャイアント馬場から継承。

ツールータッ (オーッ)  ツールータッ (オーッ)

みなさんご一緒に!!

J ジャンボ鶴田のテーマ - YouTube

ジャンボ鶴田の来歴:全日本プロレス入団

有名だった「プロレスに就職します」

1972年10月31日、全日本プロレスへの入団表明の際、「僕のようなでっかい体の人間が就職するのには、全日本プロレスが一番適した会社かなぁと思って。尊敬する馬場さんの会社を選びました」と発言。これが「プロレスに就職します」と報道された。

入団後はテキサス州アマリロのザ・ファンクスのもとへ修行に行き、スタン・ハンセンやボブ・バックランドとも邂逅。特にハンセンとは気が合ったようで、一緒にインスタントラーメンを分け合って食べる程の仲だった。
ザ・ファンクスの父、ドリー・ファンク・シニアは鶴田を見て「この男はレスラーになるための下地はとっくに出来ている。あとは経験を積むだけだ」と評した。

1973年、プロデビュー

1973年3月24日にプロデビュー。2ヶ月後にはドリー・ファンク・ジュニアのNWA世界ヘビー級王座に挑戦。
さらに8月9日にはスタン・ハンセンと組み、当時ザ・ファンクスが保持していたインターナショナル・タッグ王座に挑戦。

10月には帰国し、後楽園ホールにおけるムース・モロウスキー戦で国内デビュー。
蔵前国技館でのザ・ファンクスとのインターナショナル・タッグ王座戦の馬場のパートナーに選ばれる。
この抜擢については全日内外、メディアからも猛批判が上がったが、アメリカに渡り鶴田の成長ぶりをその目で確認していた馬場は「まあまあ、とにかく試合を見て判断してくれ」と自信たっぷりに答えている。
60分3本勝負の1本目ではテリー・ファンクからジャーマン・スープレックス・ホールドでピンフォールを奪い、ほどなく全日本プロレスNo.2の地位につく。

1973年10月27日にリングネームをジャンボ鶴田と改名。師匠であるジャイアント馬場と同様にスケールの大きなプロレスを期待されての命名であった。

ジャンボ鶴田の来歴:1970年代中盤~ライバル達との出世争い

3年連続で年間ベストバウトを受賞

1970年代中盤は、様々なライバルとの激闘を経て着実にレスラーとしての階段を上る。

1977年8月25日に行われたミル・マスカラスとの田園コロシアム決戦を含め、東京スポーツ主催のプロレス大賞において3年連続年間ベストバウトを受賞。
ライバル達との出世争い

ライバル達との出世争い

当時の必殺技はスープレックス

この時期の鶴田の代名詞は、UNヘビー級王座と背後に星を刻んだレスリングタイツ。

必殺技は4種類のスープレックス、特にジャーマン・スープレックスとトップロープからのウルトラCドロップキックを大一番で用いた。

ジャンボ鶴田の来歴:1980年代前半~世界の鶴田へ

後に小橋建太も通った「善戦マン」の道

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  • 闘魂 2021/6/28 22:15

    全日はケツ決めなしとか、昭和の中学生のようなコメントを発見して久々笑った。まだ、こんな人が世の中にいるとは。逆にこういう人って、プロレスを楽しめないんじゃないのかな。

    白井黒子 2021/2/4 12:36

    個人的には、チャイニーズカンフーの音楽で、試練の10番勝負、キムイル、キムドク組とのインタータッグ戦、ビルロビンソン、マードック戦の頃の方が印象強い。
    日本人同士は、途中でつまらなくなり、プロレスは、80年代の終わりに全く見なくなった。

    田んぼ鶴田 2020/11/16 00:32

    デマを流すのはやめてほしい。全日も新日もやってることは一緒でしょ。
    全日だけがケツ決めなしとかありえないし、維新軍が全日きたときにマズいところに来た思ったとか、デマもはなはだしい。そんなに全日が強かったらなぜ長州力は全日参戦中一度もフォール負けはなしだったんでしょう。鶴田も結果的に勝てなかったわけだし。タッグ王座もシングル王座もジャパン軍が総なめ。全日が本当にケツ決めなしでやってたとしても、ケツ決めありしかやってなかった人たちにそんなに負けまくったなら、逆に恥ずかしい話でしょ。

    浅井ラム 2020/10/20 04:34

    新日本はFACEだったし試合もそれとわかる試合ばかりだったから全日本を観てた。
    テリーファンクは馬場さんが亡くなった時、全日本は世界で唯一残る伝統と言っていた。ターザン山本が記事と引き換えにブックを持ち込んでるが、それまではスーパーヘビーにジュニアが混ざる6人タッグとか、ジョバーが負けを善しとする感じはあったけど、メイン選手にはケツ決めなんて無かった筈。だからジャパン軍団は参戦初日の後に控え室で「マズいところに来ちゃったね」ってお通夜みたいになったらしい。
    ミスター高橋の新日本はこうだから全てこう、の論法はおかしい。

    浅井ラム 2020/10/20 04:33

    新日本はFACEだったし試合もそれとわかる試合ばかりだったから全日本を観てた。
    テリーファンクは馬場さんが亡くなった時、全日本は世界で唯一残る伝統と言っていた。ターザン山本が記事と引き換えにブックを持ち込んでるが、それまではスーパーヘビーにジュニアが混ざる6人タッグとか、ジョバーが負けを善しとする感じはあったけど、メイン選手にはケツ決めなんて無かった筈。だからジャパン軍団は参戦初日の後に控え室で「マズいところに来ちゃったね」ってお通夜みたいになったらしい。
    ミスター高橋の新日本はこうだから全てこう、の論法はおかしい。

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