歌舞伎町のど真ん中に昭和レトロな居酒屋、仕切るのはインディーレスラー「KUDO」!
2017年8月7日 更新

歌舞伎町のど真ん中に昭和レトロな居酒屋、仕切るのはインディーレスラー「KUDO」!

東京・新宿歌舞伎町のど真ん中に昭和レトロ風居酒屋「エビスコ酒場」あり。プロレスファンならお馴染みのこの居酒屋を仕切るのは、DDTプロレスリングのトップレスラーKUDO選手。プロレスキャリア16年、今なおレスラーとして第一線で活躍を続ける一方、この土地で8年間飲食業を営むKUDO選手が淡々と語る、インディーレスラーとしての覚悟、そしてプロレス愛。

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ミド編)ぉおっ、ではそこからプロレスラーの道を!?
いや、そのときはお断りして卒業後は一回サラリーマンをやったんです。
サラリーマン時代は販売職。期間は半年でしたけど、販売について学ぶことは多かったです。
学生時代にキックボクシングのプロテストに受かること、プロレス団体の社長にリング上での動きを評価されること。

いずれもKUDO選手の弛まぬ努力や創造性(センス)があってこそ成し得たことのはず。
まして「身体が小さくてなれないと思っていた」プロレスラーへの道。

しかし、そこでそのままプロレスに進まず、大学卒業後に一度サラリーマン経験を積んでからの2001年。
KUDO選手はいよいよDDTプロレスリングからプロレスラーデビューを果たすこととなる。
KUDO選手のシール

KUDO選手のシール

キン消し、ビックリマン、カードダス。全部やっていたと話してくれたKUDO選手。
いまではこのようにご自身のシールも登場している。

「インディーレスラー」として

ミド編)2001年、いよいよプロデビューなさいました!以降16年、DDTプロレスリング一筋でキャリアを築かれていきます。
DDTは高木社長のアイデアが凄いんですよ、それはもう周りが困るくらい(笑
高木さんがどんどんアイデアを出して、松井レフェリーら周りの人が形にしていく団体。

ドラマティック・ドリーム・チームDDT、僕はこの名前が好きなんです。
プロレスはチームスポーツなんだっていう。
DDTプロレスリング一筋で16年のKUDO選手

DDTプロレスリング一筋で16年のKUDO選手

KUDO選手が自然と口にする、DDTというプロレス団体の魅力。
DDTは「プロレスを初めて観る人にぜひお勧めしたいですね。」
ついにデビューしたプロレスの世界だったものの、KUDO選手は自身がデビューした後もプロレスのメジャー団体は雲の上の存在だったと語る。

大好きなプロレスを続けるために働く

インディーレスラーは、ただプロレスだけやって食べていくことは出来ないんです。
みんなそれぞれ、何かしら仕事をしながら掛け持ちで。好きなプロレスをしたいから頑張って働く。

僕の場合はいまの立場にも繋がるのですが飲食店。他にはスポーツジムや新宿2丁目とかもよかったですよね。
ミド編)えっ、新宿2丁目ですか?
そうです、働きながらチケットも売れて顔も売ることが出来ますし(笑。

僕らインディーは「プロレスの試合をして給料もらっている」感覚ではないんですよね。
「試合を用意してもらったら、チケットを売ってそのお金をいただいている」感覚です。
KUDO選手の口から自然と出る言葉は「プロレスラーとして」というよりも「プロレスラーを続けることが出来た」という観点のキャリア。
そこにはあるのは「インディーレスラー」としての覚悟、それはやがて矜持と呼べるものに昇華したのではないだろうか。

ミド編)いまやDDTプロレスリングは両国国技館やさいたまスーパーアリーナでの興行も成功させています。団体が大きくなって、選手にとってはプロレスに打ち込める環境が整ってきたのではないですか?
団体が大きくなれば、その分ランニングコストも大きくなるので大変ですよね。
振り返って「いい時期」というのはなくて、今は今で大変といいますか。

本当にみんな、プロレスが好きだからやれている。ファンも含めてチームなんです。
長い選手キャリアのなか、KUDO選手は何度もDDTのトップに立って団体を牽引してきた一人。
そんな彼から伝わる「みんなの力で成り立っている」という気持ち、それはプロレス愛と呼んで然るべきものだ。

3.20さいたまスーパーアリーナを振り返る

ミド編)3.20さいたまスーパーアリーナ大会では、大山峻護選手のプロレスチャレンジマッチでパートナーを務められました。
高山義廣選手やディック東郷選手が前にいて、大山峻護選手が横にいて。
あのメンバーで何を残せるのか考えましたよね。

一番は大山さんが怪我なく完全燃焼出来たら、それがゴールでした。
僕にとっては大山さんありきの試合、大山さんが満足してくれたから本当によかったです。

3.20さいたまスーパーアリーナ大会は、裏方さんは会場入りの時間など大変でした。前日24時入りの人もいましたからね(笑

僕も前日はお店で仕事して当日は朝7時入り、若手選手は始発で来い!みたいな。
KUDO選手のみならず、DDTの選手たちは試合カードが組まれると会場の規模なども考えて「何をどう魅せよう?」とテーマを考える。
根底にあるのは「プロレスが好き」、だからプロレスのアイデアを出そうとするのだ。
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