グレッグレイクとの邂逅
元キング・クリムゾンのグレッグ・レイクのソロ・プロジェクトに参加。
レイクの復活ツアー・メンバーにゲーリー・ムーアがバンド・マスターを任されて、ほかにテッド・マッケンナ、レイクやリスタン・マーゲッツが参加。
ムーアとレコーディング・メンバーはプロモーション・ツアーに同行、ムーアは楽曲を提供することで、レコーディングの報酬を得た。
レイクの復活ツアー・メンバーにゲーリー・ムーアがバンド・マスターを任されて、ほかにテッド・マッケンナ、レイクやリスタン・マーゲッツが参加。
ムーアとレコーディング・メンバーはプロモーション・ツアーに同行、ムーアは楽曲を提供することで、レコーディングの報酬を得た。
ソロ活動に軸足を置いて
ヴァージン・レコードと契約してイアン・ペイス(ディープ・パープル)を加えたバック・バンドを売りにレディング・フェスティバルに4年越しでソロ・アーティストとして登場。
1979年3月録音にとりかかったレコーディングは9月、「コリドーズ・ オブ・パワー」としてリリースして最高位UK30位を記録した。
1979年3月録音にとりかかったレコーディングは9月、「コリドーズ・ オブ・パワー」としてリリースして最高位UK30位を記録した。
日本マーケットでは
日本でのブレイク
1983年1月に初来日公演。チケットは即日完売し、追加公演も組まれた。
来日メンバーはイアン・ペイス、ニール・マーレイ、ドン・エイリー、ジョン・スローマンという豪華な顔ぶれであった。
プロモーションとしてテレビ朝日の人気音楽番組「ベストヒットUSA」に出演、シンコー・ミュージックから「100% Gary Moore」なる特集/スコア本も発刊された。
1983年、日本公演を収めたライヴ・アルバム「ロッキン・エヴリ・ナイト」が日本のみで発売された。同アルバムはオリコンLPチャートで15位を記録している。
なお、日本での異常なまでの人気ぶりに便乗して、未発表作品を含めて「Live at Marquee」、「Dirty Fingers」として相次いでリリースしたため、1984年のワールド・ツアーを収録したライブ・アルバム「We Want MOORE!」の日本発売は見送られた。
少し飛ぶが、1986年本田美奈子に楽曲提供した(「the Cross -愛の十字架-」: 原曲「クライング・イン・ザ・シャドウ」は、日本ではムーア本人のレコーディングでもリリースされている)している。
さらに日本マーケットが盛んだったこの1988年には、ヴァージン・レコードの日本配給先(当時)であるビクター・レコード契約の歌手浜田麻里が、ムーア作の「LOVE LOVE LOVE」(ギターは松本孝弘が演奏)を録音。
来日メンバーはイアン・ペイス、ニール・マーレイ、ドン・エイリー、ジョン・スローマンという豪華な顔ぶれであった。
プロモーションとしてテレビ朝日の人気音楽番組「ベストヒットUSA」に出演、シンコー・ミュージックから「100% Gary Moore」なる特集/スコア本も発刊された。
1983年、日本公演を収めたライヴ・アルバム「ロッキン・エヴリ・ナイト」が日本のみで発売された。同アルバムはオリコンLPチャートで15位を記録している。
なお、日本での異常なまでの人気ぶりに便乗して、未発表作品を含めて「Live at Marquee」、「Dirty Fingers」として相次いでリリースしたため、1984年のワールド・ツアーを収録したライブ・アルバム「We Want MOORE!」の日本発売は見送られた。
少し飛ぶが、1986年本田美奈子に楽曲提供した(「the Cross -愛の十字架-」: 原曲「クライング・イン・ザ・シャドウ」は、日本ではムーア本人のレコーディングでもリリースされている)している。
さらに日本マーケットが盛んだったこの1988年には、ヴァージン・レコードの日本配給先(当時)であるビクター・レコード契約の歌手浜田麻里が、ムーア作の「LOVE LOVE LOVE」(ギターは松本孝弘が演奏)を録音。
羨望のギターヒーローに
via blog.goo.ne.jp
世界各地の公演でスタンディングオベーションに
それは、1984年初頭、ソング・ライターのニール・カーターとの共同作業で制作された「ヴィクティムズ・オブ・ザ・フューチャー 」をリリースから始まる。
2月に初の武道館での公演を含む2度目の来日公演をおこなった。
メンバーはカーターにイアン・ペイス、クレイグ・グルーバー(エルフ、レインボー)。
1984年イアン・ペイスはディープ・パープル再結成のためバンドを去り、7月のアメリカ・ツアーはセッション・ドラマーを起用して続行された。
12月、北アイルランドのベルファストのアルスター・ホールにて凱旋コンサート。
アンコールでの盟友:フィル・ライノットとの共演がハイライトとなった。
この演奏の模様はドキュメント・フイルム、「エメラルド・アイルス」に収められてリリースされた。
さらに1985年のマンチェスター公演 は大成功を飾った。
2月に初の武道館での公演を含む2度目の来日公演をおこなった。
メンバーはカーターにイアン・ペイス、クレイグ・グルーバー(エルフ、レインボー)。
1984年イアン・ペイスはディープ・パープル再結成のためバンドを去り、7月のアメリカ・ツアーはセッション・ドラマーを起用して続行された。
12月、北アイルランドのベルファストのアルスター・ホールにて凱旋コンサート。
アンコールでの盟友:フィル・ライノットとの共演がハイライトとなった。
この演奏の模様はドキュメント・フイルム、「エメラルド・アイルス」に収められてリリースされた。
さらに1985年のマンチェスター公演 は大成功を飾った。
盟友:フィル・ライノットとの再活動
1985年、ライノットとの共演シングル「アウト・イン・ザ・フィールズ」をリリース。
2人の共演は話題を呼び、イギリス国内で最高5位を記録するヒットとなった。
9月には「ラン・フォー・カヴァー」をリリース。
同月からの数公演でライノットがスペシャル・ゲストとして参加。
メンバーはニール・カーター、ボブ・ディズリーにゲイリー・ファーガソン。
10月に3度目の来日公演をおこなっている。
2人の共演は話題を呼び、イギリス国内で最高5位を記録するヒットとなった。
9月には「ラン・フォー・カヴァー」をリリース。
同月からの数公演でライノットがスペシャル・ゲストとして参加。
メンバーはニール・カーター、ボブ・ディズリーにゲイリー・ファーガソン。
10月に3度目の来日公演をおこなっている。
盟友ライノットの死に捧げる
1987年には故郷のアイルランドを主題としたアルバム「ワイルド・フロンティア 」をリリースし、ノルウェーのアルバム・チャートで1位を記録する。
このアルバムは、前年に亡くなった盟友フィリップ・ライノットに捧げられた。
7月に来日公演。来日時にはプロモーションの一環としてフジテレビジョンの音楽番組「夜のヒットスタジオ」に出演した。
このアルバムは、前年に亡くなった盟友フィリップ・ライノットに捧げられた。
7月に来日公演。来日時にはプロモーションの一環としてフジテレビジョンの音楽番組「夜のヒットスタジオ」に出演した。
アフター・ザ・ウォーのリリース
1988年初頭、前作の路線を引き継いだニュー・アルバムのレコーディングを開始。
オジー・オズボーン、サイモン・フィリップス、コージー・パウエルらが参加した。
テーマはアイルランド紛争で、「アフター・ザ・ウォー」は、イギリスとアイルランドの休戦に達したベルファスト合意後の1989年にリリースされた。
オジー・オズボーン、サイモン・フィリップス、コージー・パウエルらが参加した。
テーマはアイルランド紛争で、「アフター・ザ・ウォー」は、イギリスとアイルランドの休戦に達したベルファスト合意後の1989年にリリースされた。