江戸を代表する神社の1つである富岡八幡宮(とみおかはちまんぐう)、通称「深川八幡宮」で、とても悲しい事件がおこりました。そのニュースの中で、「祟る」というキーワードが出ていたので、これについて少し書かせていただきます。事件とは別のものとして読んでくださいませ。
祟り神「御霊(ゴリョウ)信仰」
日本は古来より、不慮の死を遂げた人間はこの世(にいる人たち)に恨みを持った怨霊と化し、この世に災害や疫病をもたらす…と信じていました。これを「御霊(ゴリョウ)信仰」と言います。この御霊の通称というか一般的な読み名が「祟り神」。
自分たちではどうにも予測不可能な天災や疫病は、この世にうらみを残して死んだ霊のしわざと捉える、日本的な霊魂への信仰です。そして、それら怨霊のせいであると考えた結果、怨霊の怒りを鎮めるための儀式を行うようになりました。
自分たちではどうにも予測不可能な天災や疫病は、この世にうらみを残して死んだ霊のしわざと捉える、日本的な霊魂への信仰です。そして、それら怨霊のせいであると考えた結果、怨霊の怒りを鎮めるための儀式を行うようになりました。
863年、初めて朝廷で行われた御霊会
この信仰が国家レベルで行われるようになったのが平安時代。朝廷の公式記録『三代実録』によりますと貞観5年(863年)5月20日、京・神泉苑において「御霊会(ゴリョウエ)」が行われております。これが朝廷で行われた御霊会の初見と言われています。この時に御霊として鎮められた者の中で最も有名なのは早良親王(サワラシンノウ)。平安京への遷都の一因とも言われる怨霊です。余りに祟り(災害)が強すぎたため、崇道天皇と追称されております(こんな例は他にはありません)。
『三代実録』には崇道天皇(早良親王)、伊予親王、藤原夫人(伊予親王の母)、觀察使(藤原仲成?)、橘逸勢、文室宮田麻呂の御霊者がいる・・・と書かれております。疫病が流行し死者が多いのは御霊者のせいである、と。京畿から外国まで、夏から秋まで御霊会を修め、絶えさせないようにしましたよ。仏を礼拝して経を読み、あるいは歌って舞い、弓矢を射て、相撲を取りましたよ…というような内容が残されております。芸能で「おもてなし」をした様子がうかがえます。
『三代実録』には崇道天皇(早良親王)、伊予親王、藤原夫人(伊予親王の母)、觀察使(藤原仲成?)、橘逸勢、文室宮田麻呂の御霊者がいる・・・と書かれております。疫病が流行し死者が多いのは御霊者のせいである、と。京畿から外国まで、夏から秋まで御霊会を修め、絶えさせないようにしましたよ。仏を礼拝して経を読み、あるいは歌って舞い、弓矢を射て、相撲を取りましたよ…というような内容が残されております。芸能で「おもてなし」をした様子がうかがえます。
「祇園御霊会」
貞観11年(869年)には全国で疫病が流行した際は素戔嗚尊(牛頭天王)の祟りとして、6月7日に全国の国の数に殉じて66本の鉾をたて、同14日に神泉苑にて御霊会を行ったそうです。これを別名「祇園御霊会」と言います。
祇園八坂神社 神幸祭 寺町御旅所 平成23年7月17日.mpg
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本来、日本古来の神様である素戔嗚(スサノオ)さまですが、当時は神仏習合により素戔嗚と牛頭天王が合体しておりまして、この素戔嗚×牛頭天王を荒魂な疫病神とする信仰がありました。その本拠地が現在の京都・八坂神社。牛頭天王は祇園精舎の守護神とされておりますため、この信仰関連の神社は「祇園社」「天王社」など呼ばれております。祇園信仰に基づくお祭は各地に広がりまして、地域によって「祇園祭」、「天王祭」などと呼ばれるようになりました。
祟り、とだけ聞くとおどろおどろしく感じますが、日本人は元来ポジティブ。祭礼に昇華させ、地域のお祭りに変えております。
深川の事件は、今は悲しい感情がこみ上げますが、お宮は地域の皆様にとって大事な空間。また元気な声でにぎわう祭礼などに足を運ぼうと思う自分です。
祟り、とだけ聞くとおどろおどろしく感じますが、日本人は元来ポジティブ。祭礼に昇華させ、地域のお祭りに変えております。
深川の事件は、今は悲しい感情がこみ上げますが、お宮は地域の皆様にとって大事な空間。また元気な声でにぎわう祭礼などに足を運ぼうと思う自分です。
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