2021年7月8日 更新
【沢田研二】ジュリーの愛称でお馴染みのスーパースター!数々の名曲や出演作品も振り返る!
1960年代終わりからスーパースターとして活躍し、そのイケメンぶりで多くの女性ファンを虜にしてきた沢田研二さん。ザ・タイガース、PYGといったバンド活動や俳優としても有名ですよね。そんな沢田研二さんのご活躍ぶりをプレイバックしていきますので、ぜひ記事をご覧になってください。
スーパースターとして活躍した沢田研二さん
沢田研二さんの経歴
1948年、ご両親の実家がある鳥取県津ノ井で生を受けた沢田研二さん。父親の仕事の関係で、京都府京都市に引っ越し、小中高と地元の公立学校に通いました。しかし、高校は中退されているようです。
ファニーズとしてバンド活動をしていると、ジャズ喫茶でロック歌手として有名な内田裕也さんと共演。この共演がきっかけとなり、メンバー全員、渡辺プロダクションと契約してメジャーデビューする足掛かりを掴みました。
1967年、ザ・タイガースはシングル『僕のマリー』を発売してデビューを飾ると、その後に続々とヒット曲を飛ばしました。そして、端正な容姿をした沢田研二さんは、貴公子的な存在として10代・20代の女性を中心に爆発的な人気を獲得されます。
しかし、渡辺プロダクションの待遇を巡ってメンバーは脱退を仄めかすように。事務所との交渉は難航し、ザ・タイガースはメンバーの突然の失踪というかたちで解散に傾いていくのでした。
その一方、バンド活動においては、PYGのボーカルの一人である萩原健一さんが俳優としての活動を本格化させたことで形骸化。他のメンバーは、沢田研二さんのバックバンドとして活動していくことになります。
1970年半ばから日本国内に捕らわれず、海外でも音楽活動をするように。イギリスやフランス・ドイツ・ベルギーでも活躍し、日本人アーティストとして、その存在感をアピールしました。フランスでは、ゴールデンディスク賞を獲得した初の日本人になっています。
この時期から派手さを意識したビジュアルやパフォーマンスがエスカレートしていくようになり、その奇抜さも大きな話題になります。沢田研二さんのバックバンドのリーダーを務めていた井上堯之さんは、奇抜さを重視したスタイルについていけなくなり、1980年にはバックバンドを解散してしまいます。
1980年代に入ると『ザ・タイガース同窓会』といった企画が組まれ、全員ではないものの、当時のメンバーが再集結したことでも話題になりました。これを機に、ザ・タイガースの楽曲として、いくつかのシングルも発売されていて全国ツアーも行なわれています。
1981年公開の映画『魔界転生』でも、沢田研二さんは主演を務め、観客動員数は200万人、配給収入は10億5千万円を記録するようなヒット作になりました。
1995年には自分のやりたい音楽をやりたいようにするとセルフプロデュース宣言を行ない、それ以降、現在に至るまで自分自身で音楽活動をプロデュースされています。
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生年月日:1948年6月25日
血液型 :A型
身長 :171㎝
出身地 :京都府京都市
職業 :歌手
俳優
活動期間:1967年~