GSブーム末期に颯爽と現れた「ザ・ブルーインパルス」!!
紆余曲折を経て、無事開会式が実施された2020年東京オリンピック。開会式当日の7月23日には、航空自衛隊のブルーインパルスが東京上空を飛行し、SNS上ではブルーインパルスの雄姿を撮影した写真の投稿が相次ぎ、大いに盛り上がっていました。そんなブルーインパルスですが、「そういえば昔グループサウンズ(GS)に“ブルーインパルス”っていうバンドがいたよな?」と思い出してしまったので、このたび記事にしてみることにしました。
五輪で活躍したブルーインパルスはこちらですが…
想像よりかなり早いスピードで、10秒くらいしか撮れなかったような感じでした*⋆✈︎
— choco📷✩.*˚ (@kyoto_love5) July 23, 2021
ピントが合わず、直すひまなくそのまま撮りましたがそんなにピンボケしてるようには見えない😂#ブルーインパルス #Tokyo2020 #Olympics pic.twitter.com/KjTfSkx4MW
今回特集する「ザ・ブルーインパルス」はこちら!!
1968年10月、「太陽の剣」で颯爽とデビュー!!
ザ・ブルーインパルスが結成されたのは1968年のこと。まず名古屋にて「ザ・ダックス」というバンドが長谷幸也(ヴォーカル)、湯村寿明(リードギター)らを中心に結成され、当時隆盛を極めていたジャズ喫茶を中心に活動していました。そして長谷、湯村の2名に、茨城で活動していたバンド「ザ・シャイナーズ」から大越反二(ドラムス)、萩谷清(サイドギター)、矢口隆(ベース)の3名が加わり、1964年の東京オリンピックで活躍したブルーインパルスから名前を取った「ザ・ブルーインパルス」を結成。そして彼らは、当時アイドル的な人気を博していたアメリカのバンド、ザ・モンキーズの前座として日本武道館のステージに立つなど、順調にキャリアを積み重ね、同年10月にレコードデビューを果たすこととなります。
デビューシングルのタイトルは「太陽の剣」。当時日本ビクターが発足させたばかりのRCAレーベルの第1弾(邦楽)としてリリースされました。作詞は奥村チヨ「恋の奴隷」などで有名ななかにし礼、作曲は赤い鳥「翼をください」などで有名な村井邦彦が担当。このコンビは、同年6月に萩原健一が在籍していたザ・テンプターズの代表曲「エメラルドの伝説」をヒットさせたばかりであり、ザ・ブルーインパルスへの期待も相当なものであったことを伺わせます。シングル「太陽の剣」ですが、イントロのブラスアレンジが印象的なロック色の強いGS系歌謡曲で、ザ・テンプターズが歌っても違和感の無さそうな佳曲だったのですが、オリコン最高位は54位と、小ヒットに留まりました。
1969年、ムード歌謡へとシフト。
オリコンにチャートインは果たしたものの、大ヒットとまではいかなかったザ・ブルーインパルス。その後も新宿ACB(アシベ)などを中心にライブ活動を精力的にこなしていた彼らですが、翌1969年3月には2枚目のシングル「メランコリー東京」を発表しました。
こちらのシングルですが、「太陽の剣」とは一転してムード歌謡的なサウンドとなっています。1969年当時、GSは急速に人気が低下しており、前述のザ・テンプターズや沢田研二が在籍するザ・タイガースなども売上枚数の低下に悩まされていました。その一方で、パープル・シャドウズが1968年に発表した「小さなスナック」がミリオンセラーを記録する大ヒット。同曲はGSのカテゴリではあるものの中身は完全な歌謡曲であり、このヒットによりGSの歌謡曲化に拍車がかかり、ザ・ブルーインパルスもその流れに飲まれたと推測されます。
1970年、アングラソングに挑戦するも…
上述の通り、GSブームの衰退に翻弄され音楽性が変化していったザ・ブルーインパルス。1969年にはヴォーカルの長谷が脱退し、代わりに長瀬実が参加。1970年の大阪万博で演奏するなど活動を継続していました。そして、同年4月には3枚目のシングル「苦しみのロック」を発表しました。
「苦しみのロック」ですが、ムード歌謡然とした「メランコリー東京」とは一転したアングラソングであり、アングラ系で当時「ケメ子の唄」などがヒットしたことから、そのブームに便乗してリリースされたものと思われます。しかしながら、1970年当時はGSブームがほぼ完全に去っており、GSというカテゴリでリリースされたこのシングルに、注目が集まることはありませんでした。そして、この「苦しみのロック」がザ・ブルーインパルスのラストシングルとなり、バンドは同年5月に行われた新宿サンダーバードでのライブを最後に活動を停止、解散となりました。