昭和を代表する双子デュオ「ザ・ピーナッツ」
皆さんは「ザ・ピーナッツ」というグループをご存知でしょうか?50年代から70年代にかけて活躍した双子デュオで、「名前は聞いたことがある」という方も多いかと思います。実は1975年に2人は引退しており、今年(2020年)は引退から45周年に当たります。この記事では、ザ・ピーナッツの略歴、そして芸能界引退から現在までを振り返ってみたいと思います。
60年代のお茶の間を席捲した「ザ・ピーナッツ」
ザ・ピーナッツのメンバー、伊藤エミ(姉)、ユミ(妹)の2人は1941年、愛知県生まれ。双子であり、元々名古屋市内で歌っていたところを渡辺プロダクション(ナベプロ)の創業者・渡邊晋に見出され、1959年4月にシングル「可愛い花」で歌手デビューを飾りました。そして同年6月から、フジテレビ系で放送されていた「ザ・ヒットパレード」のレギュラーとして出演するようになります。
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テレビ出演で徐々に知名度が上昇していったザ・ピーナッツ。1961年からは、日本テレビ系で放送されていた「シャボン玉ホリデー」のメイン司会にも抜擢され、その人気は爆発していきます。そして1962年にはシングル「ふりむかないで」が大ヒット、翌1963年にはシングル「恋のバカンス」、その後も1967年の「恋のフーガ」など、海外からのカバーポップスが全盛だった時代において、「和製ポップス」と呼ばれた日本の作家陣によるオリジナル楽曲を立て続けにヒットさせました。
「シャボン玉ホリデー」でのザ・ピーナッツ。
その一方で、1961年には特撮映画「モスラ」において女優としても活躍。双子の妖精・小美人役を務めました。そして劇中歌として使用された「モスラの歌」は、怪獣モスラのテーマソングとして世間に広く浸透。「モスラヤ~モスラ~♪」という印象的な歌詞は、モスラの音楽と言えば「モスラの歌」と呼ばれるほどに、モスラの代名詞となっています。
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また、ザ・ピーナッツの特筆すべきところとして挙げられるのは「海外でも活躍している」という点。アメリカの「エド・サリヴァン・ショー」「ダニー・ケイ・ショー」や、西ドイツの「カテリーナ・バレンテ・ショー」に出演し、「上を向いて歩こう(SUKIYAKI)」の坂本九などとともに、日本を代表する歌手として海外の人々が真っ先に連想する歌手となりました。
「ザ・ピーナッツ」のヒット曲を少し掘り下げてみましょう!
ここでは、ザ・ピーナッツが世に送り出したヒット曲をいくつか振り返ってみましょう。彼女たちは「宇宙戦艦ヤマト」などで著名な作曲家・宮川泰に師事しており、ヒット曲の多くは宮川が作曲・編曲したものです。1962年の「ふりむかないで」、1963年の「恋のバカンス」はいずれも宮川が作曲し、日本における和製ポップス黎明期の代表作として、現在でも多数のカバーが発表されています。
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そして1967年に発表した「恋のフーガ」は、後に「ドラゴンクエスト」シリーズの音楽を生み出すこととなるすぎやまこういちが作曲を担当。宮川泰の編曲により「フーガ」の曲調から逸脱した同曲は、ザ・ピーナッツの歌唱のダイナミックさも相まって情熱的な歌謡曲へと昇華され、当時の人々を魅了しました。作詞を担当したなかにし礼は、同曲により日本レコード大賞作詞賞を受賞しています。
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その一方で、海外からのカバーポップスでも特筆すべき楽曲がいくつか存在します。1959年に発表した「情熱の花」は、ベートーヴェンの「エリーゼのために」を拝借して作られています。元がクラシックであるにも関わらず、ザ・ピーナッツの情熱的な歌唱により、当時流行していたアメリカンポップスの雰囲気を感じることが出来る佳曲に仕上がっています。それ以外にも、「コーヒー・ルンバ」「ルナ・ナポリターナ」「悲しき16才」といった楽曲を海外から輸入していました。
1975年2月、引退を表明。
上述の活動に加え、1969年からは「夜のヒットスタジオ」にも度々出演。70年代においてもその存在感を示し続けてきたザ・ピーナッツですが、1975年2月、渡辺プロダクションの社屋で行われた記者会見にて、引退を表明しました。