1994年、ワールドカップ得点王がジュビロ磐田にやってきた!
1990年のイタリアW杯でイタリア代表のフォワードとして活躍し、得点王に輝いたサルヴァトーレ・スキラッチ。その大物が、極東の開幕したばかりのサッカーリーグにやってきた。
しかも、スキラッチが所属するのは、1994年にJリーグ正会員となったばかりのジュビロ磐田だった。
前年までのジュビロは「ドーハの悲劇」を経て一躍有名になった”ゴン中山”こと中山雅史が、選手として知られてはいたが、Jリーグ開幕によってミサンガをつけ、サッカーファンになった人々にはほぼ知名度のないチームであった。
しかも、スキラッチが所属するのは、1994年にJリーグ正会員となったばかりのジュビロ磐田だった。
前年までのジュビロは「ドーハの悲劇」を経て一躍有名になった”ゴン中山”こと中山雅史が、選手として知られてはいたが、Jリーグ開幕によってミサンガをつけ、サッカーファンになった人々にはほぼ知名度のないチームであった。
しかし、日本代表を率いて中山と共に「ドーハの悲劇」を経験したハンス・オフトがその年ジュビロの監督に就任。
オフトの意向により、チームは当時世界最強を誇ったセリエAの、しかもビッグクラブであるインテルに所属していたスキラッチ獲得に乗り出した。
交渉人の尽力の末、Jリーグの新シーズン開幕から数週間後、ついにスキラッチがJのピッチに立った。
デビュー戦の相手は、カズやラモス、北澤、柱谷など日本代表クラスが数多く在籍し、初代Jリーグ年間王者のヴェルディ川崎だった。しかし、スキラッチはこの試合でペナルティキック1本と、アシスト1本を決めたのである。
オフトの意向により、チームは当時世界最強を誇ったセリエAの、しかもビッグクラブであるインテルに所属していたスキラッチ獲得に乗り出した。
交渉人の尽力の末、Jリーグの新シーズン開幕から数週間後、ついにスキラッチがJのピッチに立った。
デビュー戦の相手は、カズやラモス、北澤、柱谷など日本代表クラスが数多く在籍し、初代Jリーグ年間王者のヴェルディ川崎だった。しかし、スキラッチはこの試合でペナルティキック1本と、アシスト1本を決めたのである。
via www.hochi.co.jp
翌1995年には、日本人選手初のJリーグ得点王でミスター・レッズと呼ばれた福田正博に次ぐ31得点を挙げる活躍を見せた。
身長170センチ代前半と小柄ながら、抜群のゴールへの嗅覚と柔らかなボールタッチでゴールを量産した。
だが、1997年のシーズン早々に腰痛が悪化して帰国。そのまま磐田を退団。そして、現役を引退した。
身長170センチ代前半と小柄ながら、抜群のゴールへの嗅覚と柔らかなボールタッチでゴールを量産した。
だが、1997年のシーズン早々に腰痛が悪化して帰国。そのまま磐田を退団。そして、現役を引退した。
Salvatore Schillaci in Japan (1994-1997)
via www.youtube.com
優勝請負人・ビスマルクを覚えていますか?ゴール後のあのしゃがみ込むポーズも有名でしたね! - Middle Edge(ミドルエッジ)
「優勝請負人」と言われたビスマルク。ヴェルディ川崎や鹿島アントラーズで活躍し、数々の優勝の原動力となりました。また、ゴール後に見せるあの「祈りのポーズ」も子供たちの間で流行する等、初期のJリーグを盛り上げたスター選手でした。
紅白戦で武田修宏の前歯を折ったスキラッチ!
1996年に磐田にレンタル移籍してきた武田修宏。
開幕前の練習時、紅白戦で武田がFWのポジションに入った際に「ここはオレのポジションだ」といわんばかりに武田を殴り、前歯を折ったという。
しかし、その後武田とは和解。
引退後、地元パレルモでサッカースクールを開いたスキラッチのもとを武田は訪れている。
近年でも二人は食事会などで時間を共にし、武田が仲の良さそうな記念写真を自身のブログでアップするなど親交が続いている。
また、2008年に中田英寿が主催した特別試合「+1 FOOTBALL MATCH(プラスワンフットボールマッチ)」にスキラッチが参戦。11番FWとして試合に先発。
この試合の解説者は武田修宏であった。なお、武田はスキラッチのことをこの試合の注目選手だと述べている。
開幕前の練習時、紅白戦で武田がFWのポジションに入った際に「ここはオレのポジションだ」といわんばかりに武田を殴り、前歯を折ったという。
しかし、その後武田とは和解。
引退後、地元パレルモでサッカースクールを開いたスキラッチのもとを武田は訪れている。
近年でも二人は食事会などで時間を共にし、武田が仲の良さそうな記念写真を自身のブログでアップするなど親交が続いている。
また、2008年に中田英寿が主催した特別試合「+1 FOOTBALL MATCH(プラスワンフットボールマッチ)」にスキラッチが参戦。11番FWとして試合に先発。
この試合の解説者は武田修宏であった。なお、武田はスキラッチのことをこの試合の注目選手だと述べている。
背番号「9」を巡るスキラッチとゴンの関係
磐田がJリーグに昇格した1994年から数年間はまだ固定の背番号が与えられていなかったが、9はすでに誰もが認める中山の番号だった。ところが同年、中山はシーズン途中にけがで長期離脱を余儀なくされた。代わって9番を背負ったのは、中山の離脱と入れ替わるようにチームに加入し、後に“ゴン・トト”と呼ばれた伝説の2トップを組む元イタリア代表――90年の地元でのワールドカップで得点王に輝いたFWサルバトーレ・スキラッチだった。
中山は翌95年シーズンから試合に復帰したが、アウェーで迎えたジェフユナイテッド市原(現千葉)との開幕戦でつけた背番号は、これまでの9ではなく11だった。試合内容で押していた磐田はシュートを相手の2倍近く放ったが、結局ゴールを奪えず0−1と惜敗。「勝利に貢献したい」と自身のゴールに意欲をのぞかせて試合に臨んだ中山だったが、325日ぶりの復帰戦を白星で飾ることはできなかった。
何としてもシーズン初勝利が欲しい第2節、ホーム開幕戦となるガンバ大阪戦を数日後に控えた練習後のロッカールームで、前年から9番を背負ってきたスキラッチから中山に、ある提案が伝えられた。「次の試合からお前の背番号11とオレの9を交換してくれ。やっぱり9番が一番似合うのはゴン、お前だから」。世界を知る男の提案を、中山は快く受け入れた。
「ハゲラッチ」と呼ばれた薄毛のスキラッチ!
現役時代から元々頭髪が薄く頭頂部の頭皮が透けて見えるくらいの薄毛であった(チームメイトだった中山雅史はTV番組で「ハゲラッチ」とあだ名していた)が、引退後はイベントやメディアの前で風になびく程の黒く豊かな毛髪量で登場している。
磐田のJ昇格10周年記念イベントに参加した際、磐田の松崎社長(当時)が「体型の変わった人も、髪の増えた方も…」とコメントした。
via higherhope.net