Kill=slayd(キル・スレイド)
via puresound.co.jp
現在、自身のメインバンドとなる【C4】や、GLAYのTAKUROと共に不定期に活動を行ってる【STEALTH】のTOKIが、かつて在籍したヴィジュアル系バンドです。
インディーズ時代は、デランジェやバクチクなどからの影響を強く感じさせるダークな曲を披露していました。メジャー進出後は、徐々に失速していきましたが、楽曲自体はインディーズ時代に比べると格段にクオリティが高いです。
TOKIのKill=slaydを結成する前のバンド活動について
ボーカルのTOKIは10代がいよいよ終わりを告げる頃、仕事の合間を縫って、TERUHIKOと約束していたバンドを結成しました。
当時のメンバーは、みんなガーゼシャツ、ボンテージパンツに身を包み、音楽で食っていく!という決意を表したような格好していました。
そして、初ライブは、新宿にあるヘッドパワーというライブハウスで行われました。髪を銀色のメッシュで染め上げ、自分で鋲を無数に打ち込んだ革ジャンと革パンに身を包んだTOKIは、「思ったよりも小さな所だな」そんな思いをよそに対バンのリハーサルを見学。いざステージに上がると客席はまばらで、出演バンドのメンバーの方が多いと思えるくらいの人の少なさだったらしいです(TOKIは、ライブ会場には常にお客さんというものが沢山入っていると思っていたようです)。
そして、客席からは「気取ってんじゃねーよ!パンクバンドだろうが!」とヤジが飛び、それに呼応するように笑い声が客席に起こりました。ヤジを飛ばしている奴をブン殴りたい衝動を必死に抑えながら、残り曲を全て演奏し、ステージを降りました。こんなライブでも次こそは客を黙らせてみせるという思いがメンバーの胸の中で弾けました。
その後、2回目のライブを吉祥寺でこなしましたが、オリジナル曲の制作を機に、音楽性の相違でギターが脱退。さらに新しく入ったドラムは、艶なヴィジュアルとソリッドなサウンドが特徴のヴィジュアルバンドの『デランジェ』が好きで、TOKIは新たにギターが入った事で新しい発見をしたらしいです。
バンドは順調に活動を続けていましたが、TOKIは交通事故に遭い、長期入院してしまいバンド活動が出来なくなりました。
そして、退院後、ついにKill=slaydが誕生する事になります。
当時のメンバーは、みんなガーゼシャツ、ボンテージパンツに身を包み、音楽で食っていく!という決意を表したような格好していました。
そして、初ライブは、新宿にあるヘッドパワーというライブハウスで行われました。髪を銀色のメッシュで染め上げ、自分で鋲を無数に打ち込んだ革ジャンと革パンに身を包んだTOKIは、「思ったよりも小さな所だな」そんな思いをよそに対バンのリハーサルを見学。いざステージに上がると客席はまばらで、出演バンドのメンバーの方が多いと思えるくらいの人の少なさだったらしいです(TOKIは、ライブ会場には常にお客さんというものが沢山入っていると思っていたようです)。
そして、客席からは「気取ってんじゃねーよ!パンクバンドだろうが!」とヤジが飛び、それに呼応するように笑い声が客席に起こりました。ヤジを飛ばしている奴をブン殴りたい衝動を必死に抑えながら、残り曲を全て演奏し、ステージを降りました。こんなライブでも次こそは客を黙らせてみせるという思いがメンバーの胸の中で弾けました。
その後、2回目のライブを吉祥寺でこなしましたが、オリジナル曲の制作を機に、音楽性の相違でギターが脱退。さらに新しく入ったドラムは、艶なヴィジュアルとソリッドなサウンドが特徴のヴィジュアルバンドの『デランジェ』が好きで、TOKIは新たにギターが入った事で新しい発見をしたらしいです。
バンドは順調に活動を続けていましたが、TOKIは交通事故に遭い、長期入院してしまいバンド活動が出来なくなりました。
そして、退院後、ついにKill=slaydが誕生する事になります。
Kill=slayd結成。
TOKIは、かつて一緒にバンドをやっていた同級生の輝彦に自分の意志を伝えてバンドに誘いました。二人で自宅でバンド関係の本のメンバー募集の欄を読み漁り、メンバーを探しました。
しかし、テクニックの問題や、人間性の問題で、なかなかメンバーが決まりませんでした。
そんな日々を繰り返していく中、何気なく立ち寄った楽器店に張り出してあったメンバー募集の張り紙を見ていると、表現したい音楽性に、かなり共通しているものを感じるギタリストの張り紙を発見します。
そして、セッションをする事になりました。池袋駅で落ち合った、そのギタリストは茶髪の長髪で体格も物凄く細く、金属のアクセサリーをジャラジャラ身に着けていて「いかにもミュージシャン」という風貌で登場。それがIZAであり、Kill=slaydの始まりから終わりまで、ただ一人TOKIと共に過ごしたメンバーでした。
TOKIとTERUHIKOは、IZAのギターにただただ圧倒され、自分達のレベルの低さを知る事になりました。その後、「で、どうだろう?一緒にバンドをやってくれないかな?」とTERUHIKOが単刀直入に話し掛けるとIZAは、無言でした。
TOKIは「とりあえずカバー曲でのセッションだけじゃ決められないのなら、俺達は何回でもスタジオには入れるけど?」と積極的にアピールするが、IZAはその問いにも無言でした。そして、意を決したように口を開きました。
「あの、俺は福島からプロになる為に上京してます。二人は、そういうつもりはあるんですよね?」とIZAに言われ、二人は間髪も入れず「もちろん!」と答えました。
その結果、IZAはバンドに加入しました。加入理由は「お二人とも、正直、音楽に対して今イチ本気度に欠ける部分があると思います。でも、感じるモノがあったんで」との事です。
こうしてTOKIの最初のバンドであるKill=slaydの初代メンバーが3人揃いました。
バンドの楽曲は、IZAが「そろそろ、俺の溜めてた曲とか演ってみたいんで、歌詞を乗せて欲しいんだけど、TOKIちゃん、歌詞は書ける?」と質問した所、「うん、頑張るよ。あと、俺も自分で作った曲とかあるんで、それも聴いてみてよ」とIZAとTOKI曲を作り、TOKIが、歌詞を担当しました。
そして、Kill=slaydというバンド名を決めて、個々にステージネームをTOKI、TERUHIKO、IZAYOIにしました。
だが、TOKIは、事故によって内蔵を欠損していて、まだ合併症の治療中で下手をすれば入院の可能性があり、ヴォーカルとして体力的にハンデがありました。
そんな中で、バンド活動をしていた最中に通院先の病院で「内蔵欠損の患者に新薬を投与した事に対する治療経過のデータを取りたいという連絡があったので、前の病院に短期入院をして欲しい」との通達がありました。事故の怪我についてIZAに話していなかったが電話で告白しました。
入院中でバンドに迷惑をかけてしまうかもしれないというTOKIに対して、IZAは「いや、まだまだオリジナル曲だけでライヴをやるには時間が掛かるだろうし、そんなに気にしなくていいよ」、「むしろ平気なの?バンドなんかやって?」と質問すると、TOKIは「うん、こんな身体だけど、こんな身体だからこそ、自分の存在を証明できる事に使ってみたいんだ」と答えています。
しかし、テクニックの問題や、人間性の問題で、なかなかメンバーが決まりませんでした。
そんな日々を繰り返していく中、何気なく立ち寄った楽器店に張り出してあったメンバー募集の張り紙を見ていると、表現したい音楽性に、かなり共通しているものを感じるギタリストの張り紙を発見します。
そして、セッションをする事になりました。池袋駅で落ち合った、そのギタリストは茶髪の長髪で体格も物凄く細く、金属のアクセサリーをジャラジャラ身に着けていて「いかにもミュージシャン」という風貌で登場。それがIZAであり、Kill=slaydの始まりから終わりまで、ただ一人TOKIと共に過ごしたメンバーでした。
TOKIとTERUHIKOは、IZAのギターにただただ圧倒され、自分達のレベルの低さを知る事になりました。その後、「で、どうだろう?一緒にバンドをやってくれないかな?」とTERUHIKOが単刀直入に話し掛けるとIZAは、無言でした。
TOKIは「とりあえずカバー曲でのセッションだけじゃ決められないのなら、俺達は何回でもスタジオには入れるけど?」と積極的にアピールするが、IZAはその問いにも無言でした。そして、意を決したように口を開きました。
「あの、俺は福島からプロになる為に上京してます。二人は、そういうつもりはあるんですよね?」とIZAに言われ、二人は間髪も入れず「もちろん!」と答えました。
その結果、IZAはバンドに加入しました。加入理由は「お二人とも、正直、音楽に対して今イチ本気度に欠ける部分があると思います。でも、感じるモノがあったんで」との事です。
こうしてTOKIの最初のバンドであるKill=slaydの初代メンバーが3人揃いました。
バンドの楽曲は、IZAが「そろそろ、俺の溜めてた曲とか演ってみたいんで、歌詞を乗せて欲しいんだけど、TOKIちゃん、歌詞は書ける?」と質問した所、「うん、頑張るよ。あと、俺も自分で作った曲とかあるんで、それも聴いてみてよ」とIZAとTOKI曲を作り、TOKIが、歌詞を担当しました。
そして、Kill=slaydというバンド名を決めて、個々にステージネームをTOKI、TERUHIKO、IZAYOIにしました。
だが、TOKIは、事故によって内蔵を欠損していて、まだ合併症の治療中で下手をすれば入院の可能性があり、ヴォーカルとして体力的にハンデがありました。
そんな中で、バンド活動をしていた最中に通院先の病院で「内蔵欠損の患者に新薬を投与した事に対する治療経過のデータを取りたいという連絡があったので、前の病院に短期入院をして欲しい」との通達がありました。事故の怪我についてIZAに話していなかったが電話で告白しました。
入院中でバンドに迷惑をかけてしまうかもしれないというTOKIに対して、IZAは「いや、まだまだオリジナル曲だけでライヴをやるには時間が掛かるだろうし、そんなに気にしなくていいよ」、「むしろ平気なの?バンドなんかやって?」と質問すると、TOKIは「うん、こんな身体だけど、こんな身体だからこそ、自分の存在を証明できる事に使ってみたいんだ」と答えています。
バンドの初ライブ!!
1992年2月、新宿アンティノックというライヴハウスの昼の部にて、Kill=slaydは初ライヴを行いました。
しかし、その日は大雪でした。楽屋には、IZA、TERUHIKO、そしてサポートドラムであるOJIROと対面バンドが集まっていました。
そんな中、ステージの客席は、ガラガラでした。
TOKIは、練習で積み重ねた事を土台に、TOKIは全力で歌いあげました。TOKIは、バラードを歌う時には闘病時の辛さを思い出して、これ以上無い感情を込めて歌ったらしいです。そして、体の事より
早死になってもバンドを続けていくことを友達に伝えた。
バンドは、出演させてくれるライヴハウスには、とことん出演し、日曜の原宿でステージ衣装を着てライヴビデオを無料で配ったり、繁華街のアチコチにライヴ告知のビラを貼りまくり、音楽雑誌にもKill=slaydの情報をなるべく多く掲載していました。
しかし、その日は大雪でした。楽屋には、IZA、TERUHIKO、そしてサポートドラムであるOJIROと対面バンドが集まっていました。
そんな中、ステージの客席は、ガラガラでした。
TOKIは、練習で積み重ねた事を土台に、TOKIは全力で歌いあげました。TOKIは、バラードを歌う時には闘病時の辛さを思い出して、これ以上無い感情を込めて歌ったらしいです。そして、体の事より
早死になってもバンドを続けていくことを友達に伝えた。
バンドは、出演させてくれるライヴハウスには、とことん出演し、日曜の原宿でステージ衣装を着てライヴビデオを無料で配ったり、繁華街のアチコチにライヴ告知のビラを貼りまくり、音楽雑誌にもKill=slaydの情報をなるべく多く掲載していました。
若手のバンドの中でも頭一つ抜けた存在になって行きます!!
1992年11月にバンドは、1st DEMO TAPE[-Artistic suicide-]を発売し、1000本を完売させました。
そして、1993年には業界では名前くらいは誰でも聞いた事があるくらいのバンドに成長して行きます。
また、1つのバンドと運命的な出会いを果たしました。それがGLAYでした。
GLAYのTAKUROがTOKIの家に来るようになり仲が深まりました。
TOKIとTAKUROの交友と平行してKill=slaydとGLAYは何かにつけて一緒にLIVEを行うようになります。
そして、1993年10月に1stミニアルバム「Death13」をリリースしました。
発売記念LIVEは、市川CLUB GIOで行なわれ、オープニングアクトはGLAYなどの先輩バンドを迎えた。雑誌の取材も受けるようになり、若手のバンドの中でも頭一つ抜けた存在となっていました。
しかし、他のメンバーとの不協和音が原因で1994年。1月にTERUHIKOが脱退。新ベーシストにJUN≒Nが加入しました。
そして、1993年には業界では名前くらいは誰でも聞いた事があるくらいのバンドに成長して行きます。
また、1つのバンドと運命的な出会いを果たしました。それがGLAYでした。
GLAYのTAKUROがTOKIの家に来るようになり仲が深まりました。
TOKIとTAKUROの交友と平行してKill=slaydとGLAYは何かにつけて一緒にLIVEを行うようになります。
そして、1993年10月に1stミニアルバム「Death13」をリリースしました。
発売記念LIVEは、市川CLUB GIOで行なわれ、オープニングアクトはGLAYなどの先輩バンドを迎えた。雑誌の取材も受けるようになり、若手のバンドの中でも頭一つ抜けた存在となっていました。
しかし、他のメンバーとの不協和音が原因で1994年。1月にTERUHIKOが脱退。新ベーシストにJUN≒Nが加入しました。
そして、1994年2月にGLAYのメジャーデビュー時期にTOKIとTAKUROは、二人で兼ねてより暖めていた企画「an Optic」を敢行し、成功させました。
1994年6月には、新宿LOFTにて初ワンマンライヴ(SOLD OUT)を機に都内の主要ライヴハウスをツアーを開催しました。会場前には当日券のキャンセル待ちをする列が作られました。同年7月には、1st VIDEO[COSA.NOSTRA CIRCULATION]リリース。バンドは、市川CLUB GIO、大阪MUSE HALLでワンマンライブをするなどワンマンを中心に活動していました。
1995年4月2ndミニアルバム「ペリフェラル」をリリース。4月には日清パワーステーションワンマンを行いました。この頃になるとKill=slaydの知名度は非常に高くなっており、注目されていました。そして、ドラムのAKIRAが脱退し、KAZUSHIが加入し事で最終的なメンバーが揃いました。
1994年6月には、新宿LOFTにて初ワンマンライヴ(SOLD OUT)を機に都内の主要ライヴハウスをツアーを開催しました。会場前には当日券のキャンセル待ちをする列が作られました。同年7月には、1st VIDEO[COSA.NOSTRA CIRCULATION]リリース。バンドは、市川CLUB GIO、大阪MUSE HALLでワンマンライブをするなどワンマンを中心に活動していました。
1995年4月2ndミニアルバム「ペリフェラル」をリリース。4月には日清パワーステーションワンマンを行いました。この頃になるとKill=slaydの知名度は非常に高くなっており、注目されていました。そして、ドラムのAKIRAが脱退し、KAZUSHIが加入し事で最終的なメンバーが揃いました。
via www.amazon.co.jp
デビューから解散まで
1996年、4月マドンナ、スティング等の国内マネージメントで知られる「ZAK CORPORATION」と日本のロックバンドとしては初の所属アーティストになりました。
TOKIは、それを機に今までの金髪から黒髪に戻し、事務所からの指示でTOKIに徹底したヴォイストレーニングが課されました。そして、マキシシングル「Krank」はインディーズチャート1位に輝きました。
TOKIは、それを機に今までの金髪から黒髪に戻し、事務所からの指示でTOKIに徹底したヴォイストレーニングが課されました。そして、マキシシングル「Krank」はインディーズチャート1位に輝きました。
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その中で、TOKIだけのソロデビューの話持ち上がります。しかし、TOKIはメンバーと一緒にデビューする事を決断しました。1997年6月に1stデビューシングル「激しく強く壊れるほどに」アルバム『HEAT』にて日本クラウンからメジャーデビュー。
【メンバー】
・TOKI(トキ)ボーカル、ZA(イザ、旧芸名IZAYOI)ギター、JUN≒NA(ジュンナ)ベース、KAZUSHI(カズシ)、ドラム。
【旧メンバー】TERUHIKO(テルヒコ)ベース、Tsutomu(ツトム )ドラム、AKIRA(アキラ)ドラム。