ビジュアルと体格は超一流!でもハートが優しすぎる大森隆男
まずは個人的な大森隆男ベストバウトをご覧頂きたい。
2004年7月18日 両国国技館 三冠ヘビー級選手権試合 川田利明vs大森隆男である。
前年にWJに移籍を表明していたが、WJ自体の運営がうまくいかず、半ばフリーとして活動していた2004年。
ノアと袂を分かった古巣である全日本プロレスに乗り込んでの三冠ヘビー級のタイトルマッチ。
川田との死闘はまさに全日本プロレスを体現した試合であった。試合後半の川田のエグイ攻めを耐え抜く大森隆男。是非、このベストバウトを見てワイルドを体感して頂きたい。
2004年7月18日 両国国技館 三冠ヘビー級選手権試合 川田利明vs大森隆男である。
前年にWJに移籍を表明していたが、WJ自体の運営がうまくいかず、半ばフリーとして活動していた2004年。
ノアと袂を分かった古巣である全日本プロレスに乗り込んでの三冠ヘビー級のタイトルマッチ。
川田との死闘はまさに全日本プロレスを体現した試合であった。試合後半の川田のエグイ攻めを耐え抜く大森隆男。是非、このベストバウトを見てワイルドを体感して頂きたい。
KAWADA TOSHIAKI vs OMORI TAKAO 2004 7 18 - YouTube
via www.youtube.com
アメフト選手からプロレスラーへ
城西大学時代はアメリカンフットボールの選手として活躍。アニマル浜口ジムで身体を鍛えた後、全日本プロレスに入団する。端正な顔立ちで、かつ恵まれた体格をしていたが、入門後はなかなか芽が出ず、人の良すぎる性格もあり伸び悩み、苦しい日々が続いた。
via twitter.com
日本では珍しいがアメリカではアメフトからプロレスラーになる選手も多い。
有名なところだとボブ・サップやレスナー、そしてスタン・ハンセン、ファンク兄弟もアメフト経験者である。
城西大学でアメフトに勤しんだ大森隆男は、アニマル浜口ジムへと入門し、プロレスラーの道を歩み始める。
有名なところだとボブ・サップやレスナー、そしてスタン・ハンセン、ファンク兄弟もアメフト経験者である。
城西大学でアメフトに勤しんだ大森隆男は、アニマル浜口ジムへと入門し、プロレスラーの道を歩み始める。
via asekako.com
プロレスラーの登竜門とも言えるアニマル浜口ジム。
単にプロレスラーを育成するだけではなく、人間形成をする道場としてのアニマル浜口ジムでもある。あのテレビに映っているアニマル浜口が全てではないのだ。
アニマル浜口ジムから念願の全日本プロレスに入団。練習生からのスタートだったが、一方永遠のライバルとも言える秋山は、後楽園ホールで小橋健太とのデビュー戦だった。
単にプロレスラーを育成するだけではなく、人間形成をする道場としてのアニマル浜口ジムでもある。あのテレビに映っているアニマル浜口が全てではないのだ。
アニマル浜口ジムから念願の全日本プロレスに入団。練習生からのスタートだったが、一方永遠のライバルとも言える秋山は、後楽園ホールで小橋健太とのデビュー戦だった。
ライバル秋山との闘い~「NO FEAR」結成
華々しくデビューした秋山とは異なり、練習生からのスタートとなった大森隆男。
同期である2人はタッグを組み、アジアタッグ王座を獲得する。初めてのタイトルである。この頃からタッグマッチの素質が芽生え、後のタッグ王座獲得にも繋がっていく。
タッグマッチでは、結果を出していたのだが、この頃の全日本プロレスは「四天王プロレス」の最盛期とも言える時代。その厚い壁に跳ね返され続けていた頃、ライバルである秋山が5人目として認知されていくのである。
同期である2人はタッグを組み、アジアタッグ王座を獲得する。初めてのタイトルである。この頃からタッグマッチの素質が芽生え、後のタッグ王座獲得にも繋がっていく。
タッグマッチでは、結果を出していたのだが、この頃の全日本プロレスは「四天王プロレス」の最盛期とも言える時代。その厚い壁に跳ね返され続けていた頃、ライバルである秋山が5人目として認知されていくのである。
1996年に会社の指名によりWWEに派遣されてロイヤルランブルに出場するなど、会社の期待を受けるまでに成長していたが、いまだブレイクできていない状態だった。
そこで産み出したフィニッシュが代名詞ともなったアックスボンバーである。
そこで産み出したフィニッシュが代名詞ともなったアックスボンバーである。
via im.ezgif.com
1999年、UWFインターナショナル、キングダムから高山善廣が全日本プロレスへと移籍してくる。
共に長身であった2人がタッグを結成したとき、全日本プロレスらしくない化学反応が起こる。それが「ノーフィアー」現象であった。
長身でイケメンだったがブレイクしきれなかった大森と長身でU系のバックボーンでも全日のプロレスに馴染めていなかった2人が組んだことでそれぞれ殻を破ることになるのであった。
共に長身であった2人がタッグを結成したとき、全日本プロレスらしくない化学反応が起こる。それが「ノーフィアー」現象であった。
長身でイケメンだったがブレイクしきれなかった大森と長身でU系のバックボーンでも全日のプロレスに馴染めていなかった2人が組んだことでそれぞれ殻を破ることになるのであった。
1999年5月、東京ドームで行われたジャイアント馬場引退記念興行で大森、高山、オブライトのトリオで参戦し、同時にチーム名「NO FEAR」を発表。この頃から威勢のいい言動が目立つ様になり、様々な展開を作り出すスタイルの新日本プロレスならまだしも、ファイト重視の全日本のリングにおいてテレビカメラに向かって傲岸不遜な態度で自らをアピールし異彩を放った。
プロレスリング・ノアへの移籍、そして退団。
2000年8月に三沢光晴らによって設立されたプロレスリング・ノアへ移籍。
全日本プロレス在籍レスラーのほとんどが移籍する異例の事態であったが、旗揚げ時の写真撮影のポジションを見ると2列目にいることで会社からの期待がわかる。
全日本プロレス在籍レスラーのほとんどが移籍する異例の事態であったが、旗揚げ時の写真撮影のポジションを見ると2列目にいることで会社からの期待がわかる。