槙原寛己(1983~2001年) 159勝128敗56S 防御率3.19
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2015年現在、最後の完全試合達成者
プロ野球 槙原寛己 完全試合達成 1994年 - YouTube
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読売ジャイアンツに所属していた槙原寛己は1994年5月18日に日本プロ野球では今井雄太郎(阪急ブレーブス)以来16年ぶり、史上15人目となる完全試合を記録した。
試合開始直前に槙原に謎の電話が掛かってきた。福岡ドームに電話が入り「至急連絡が欲しいので、この番号に電話して下さい」と電話番号を書いたメモを渡された。
誰かに不幸があったのかと恐る恐る電話を入れてみると、槙原の大ファンだった。「今日はいいピッチングをして下さい。期待してます」。その時に登板前の緊張感が消えていったという。
序盤は速球主体でストライクを先行させる投球で、7回以降はスライダーとフォークを決め球に使う投球に切り替えた。試合終了後のインタビューでは「もう、なんか夢の中ですね。本当にね、あの、ピッチャーやった人はみんな憧れるものですから。ピッチャーやってて良かったなと思います」と喜びを爆発させた。
【槙原寛己選手】完全試合を達成した、伝説の「先発三本柱」の1人 - Middle Edge(ミドルエッジ)
1990年代の巨人には他球団が羨む先発投手が三人所属していた。斎藤雅樹、桑田真澄と共に「先発三本柱」と呼ばれた男、槙原寛己投手。抜群の成績を残しながら「エース」と呼ばれる事はなかった槙原投手の活躍を振り返る。
一方で、歴史に残る猛虎バックスクリーン3連発を食らったのも槙原でした
【バース!掛布!岡田!】1985年、阪神伝説のバックスクリーン3連発!!! - Middle Edge(ミドルエッジ)
1985年、阪神クリーンアップによるバックスクリーン3連弾はまさに衝撃。ラッキーゾーンのある甲子園球場で一番距離のあるバックスクリーンにホームラン3連発、それは見事な破壊力でした。打たれたのは巨人の「ミスター・パーフェクト」槙原寛己。阪神が猛虎と呼ばれる理由がわかった、目の覚めるような出来事でした。
斎藤雅樹(1984~2001年) 180勝96敗11S 防御率2.77
平成の大エース
斎藤 雅樹(1965年2月18日 - )は、埼玉県川口市出身の元プロ野球選手、プロ野球コーチ。現在は読売ジャイアンツの1軍投手コーチを務める。
サイドスローの投球フォームで1989年から1990年代中盤まで巨人投手陣を支え、2年連続20勝、11連続完投勝利を記録し、沢村賞を3回受賞した「平成の大エース」。
サイドスローの投球フォームで1989年から1990年代中盤まで巨人投手陣を支え、2年連続20勝、11連続完投勝利を記録し、沢村賞を3回受賞した「平成の大エース」。
2年連続20勝の偉業を達成
斎藤雅1984・88-91 - YouTube
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1990年も8試合連続完投勝利を挙げるなど、20勝を挙げ、巨人だけでなく「平成の大エース」「球界のエース」「ミスター完投」と呼ばれるまでに成長した。この年の斎藤を最後に2年連続20勝投手は現れていない。
もっとも、シーズン最後の3試合は2勝1敗で2年連続20勝を果たすも、19イニングで自責点16と打ち込まれ、2年連続防御率1点台は逃す。その不調は日本シリーズでも露呈し、チームのシリーズ敗退の一因となった。
翌1991年は前年終盤からの不調が続き、勝ち星が半減し、勝率も5割に落とした。
1993年から1997年まで5年連続で開幕投手を務めた。1993年は故障がちで成績を落としたが、1994年から1996年は3年連続して完封勝利を収める偉業を達成。
桑田真澄、槙原寛己とともに先発「三本柱」と呼ばれ、その中でも抜きん出た成績を残し沢村賞3回、最多勝利5回、最優秀防御率3回など数々のタイトルを獲得した。そのうち、1994年には、10.8決戦に登板し、勝利投手となった。
もう一度見たい!沢村賞を3回受賞した平成の大エース「斎藤雅樹」 - Middle Edge(ミドルエッジ)
80~90年代のプロ野球で圧倒的なピッチングを見せた平成の大エース「斎藤雅樹」の功績を振り返る。
桑田 真澄(1986~2007年) 173勝141敗14S 防御率3.55
心の野球、努力と理論の人
桑田 真澄(1968年4月1日 - )は、大阪府八尾市出身の元プロ野球選手(投手)、野球解説者、野球指導者。
PL学園高校時代は清原和博とのKKコンビで一世を風靡し、プロ入り後は1990年代の読売ジャイアンツを、斎藤雅樹、槙原寛己とともに先発3本柱の一人として支えた。
2007年にピッツバーグ・パイレーツで現役を引退してからは、フリーランスの野球解説者として活動するかたわら、早稲田大学大学院スポーツ科学研究科修士課程で修士(スポーツ科学)を取得。
PL学園高校時代は清原和博とのKKコンビで一世を風靡し、プロ入り後は1990年代の読売ジャイアンツを、斎藤雅樹、槙原寛己とともに先発3本柱の一人として支えた。
2007年にピッツバーグ・パイレーツで現役を引退してからは、フリーランスの野球解説者として活動するかたわら、早稲田大学大学院スポーツ科学研究科修士課程で修士(スポーツ科学)を取得。
堀内恒夫以来の10代での二桁勝利、そして6年連続二桁勝利
10.8決戦
1994年10月5日、神宮球場でのヤクルト戦に先発登板した際は、8回2死までノーヒットノーランに抑え、投手コーチの堀内恒夫の指示で、8日に備えるため、完封のかかった9回を回避、降板。
7日夜、宿舎で監督の長嶋茂雄から呼び出され、「しびれるところで、いくぞ」と言われて、意欲満々で試合当日に臨んだ。
当日8日は、試合前の練習時に、桑田が巨人投手陣の鍵を握ると見たファンからの熱い声援を受けて、15分くらい涙が止まらなかった。試合開始し、初回からブルペンに入っていたが、「体は、疲れでバリバリ」という状態であった。
7回3点リードの状態から登板し、「(準備は十分であったが、狭いナゴヤ球場等の条件下で)正直にいうと、怖かった」と述べている状況であった。
8回先頭打者のPLの後輩で同室だった立浪和義が一塁ベースに執念のヘッドスライディングで左肩を痛めて負傷退場となりながら内野安打としたシーンに感動したことを認めている。
9回裏2死小森哲也を大きなカーブで空振り三振に打ち取り、3イニングを無失点に抑えてセーブを挙げた。『ベースボールマガジン』2009年3月号は、「(最後の打者が三振の)直後の桑田のガッツポーズは多くの野球ファンの記憶に刻み込まれているはずだ」(pp.72-73)と記述している。試合前に涙を流し続けていたので、試合終了後は特に涙は出てはいなかった。
Giants Victory94 - YouTube
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【桑田真澄】正確なコントロールと、計算された組み立てで野球人生を歩み続ける男! - Middle Edge(ミドルエッジ)
174cm、80kgという野球選手としてはけっして恵まれた体格とは言えない桑田真澄。そんな桑田がどのようにしてPL学園の黄金時代を築き、名門巨人軍のエース背番号「18」を21年間に渡り背負ってきたのか。彼の野球人生を振り返り、その時々のエピソードを見てゆくと「桑田真澄」という男の野球哲学が浮き彫りになってくる!
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史上15人目の完全試合達成者。2015年現在最後の達成者でもある。
斎藤雅樹、桑田真澄とともに1990年代の読売ジャイアンツを支えた先発3本柱の一人。
愛称は「マッキー」「マキさん」「ミスター・パーフェクト」など。