40歳を超えても大活躍する不惑のホームランバッター!【門田博光】
2016年11月25日 更新

40歳を超えても大活躍する不惑のホームランバッター!【門田博光】

常に本塁打を意識し、44歳まで活躍し続けた、門田博光。そこには、本塁打、野球に掛けるすさまじい闘志があった。そんな闘志あふれる不惑の大砲「門田博光」の現役時代と今をご紹介します。

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40歳を過ぎても、フルスイングにこだわりタイトルを獲る漢!門田博光!

門田博光(かどた ひろみつ)

門田博光(かどた ひろみつ)

1948年2月26日生まれ
身長170cm、体重81kg
左投げ左打ち
ポジション:外野手

南海ホークスのスラッガーとして、パ・リーグを盛り上げてきた選手の一人。40歳を過ぎて、オリックスに戻っても、ブルーサンダー打線の中核を担う選手として本塁打を打っていた。
打撃フォームを、王貞治の一本足打法へ改造し、本塁打を量産する選手に成長。南海ホークスの優勝へ貢献した。

門田博光の獲得タイトル・主な表彰と記録

本塁打王:3回 (1981年、1983年、1988年)
打点王:2回 (1971年、1988年)

MVP:1回 (1988年)
ベストナイン:7回 (1971年、1976年、1977年、1981年、1983年、1988年、1989年)
カムバック賞 (1980年)

オールスターゲームMVP:2回 (1976年 第2戦、1983年 第1戦)
月間本塁打16本:1981年7月 日本プロ野球記録(達成当時)
オールスターゲーム出場:14回 (1972年、1975年 - 1977年、1980年 - 1984年、1987年 - 1991年)
シーズン満塁本塁打:4本(1983年) ※パ・リーグタイ記録

門田博光のプレースタイル

2番打者は失格・・・

2番打者は失格・・・

2番打者で活躍させたいと当時のコーチが、門田にバントを叩き込んだが、一向に上手くできず、嘆きながら2番バッターをあきらめたらしい。
門田博光と言えば、とにかく本塁打にこだわるプレースタイルを持っている。

2年目のシーズンには、31本塁打を放ち、120打点と猛打振りを発揮している。常にフルスイングが目立ち始めたこの頃から、野村克也監督は見かねて、王さんと二人で、「ヒットの延長がホームランだ!」とフルスイングをやめるように説得したが、門田は、かたくなに長打にこだわり、「ホームランの当たり損ねがヒットだ!」と自説を押し通したという。

フルスイングにこだわることについても、軽く打てばホームランになると解説者がコメントしてる場面があるが、軽く打って、ホームランにするほど、難しく時間が掛かるのか知らんから言える。軽く振ってるように見えるのは、何万スイング!何十万スイングと素振りをして、やっと軽く振ってるように見えるのだ。と

ホームランを打つには、フルスイングを軽く振っているように見えなけばならないと語った。そのイズムを、門田は、自身に植え付けて、朝の一番どりが鳴く頃から、とにかくひたすら、バットを振り続けた。

その結果、500本塁打も打つ名スラッガーになったのであろう。



当時、南海ホークスには、門田が手本とする左打者はいなかった、どうしたものかと悩んだとき、鏡の中に映る野村の打撃フォームを見て、びっくりした。

右打者の野村克也が反転して、左打者の野村克也が映っていたのだった。それ以来、野村克也がのフォームを陰ながら、鏡越しに研究し、参考にしたのだった。

門田博光の生い立ちとプロ入りまで

天理高校では、四番打者、中堅手として、外山義明投手を擁し、1965年夏の県予選決勝に進出。白滝政孝投手のいた郡山高を2-0で破る。続く紀和大会決勝でも県和歌山商を3-1で降し甲子園に出場。1回戦で小山健二投手(日本コロムビア)を擁する丸子実に9回に逆転され1-3で敗退。
卒業後は外山とともに社会人野球チームクラレ岡山に進む。1966年から都市対抗野球大会に4年連続出場。1968年のドラフトで阪急ブレーブスから12位指名を受けるがこれを拒否。翌1969年のドラフトで南海ホークスからの2位指名を受け、プロ入り。

フルスイングにこだわった現役時代の門田博光!

'83オールスターゲーム 門田博光2HR - YouTube

松岡(ヤクルト)西本(巨人)から
プロ入り2年目の1971年から、野村監督解任になるまでの7年間。主には3番バッターで中距離バッターとして活躍していた。野村監督からは、監督の現役時代も含めて、大振りをするな!俺の前にランナーで出ろ!とはっきりと怒られた話もある。

監督が解任されてからは、大振りも解禁となり、門田の思いが叶うようになってから、パワーヒッターとして、南海ホークスの4番バッターとしてバットを振りまくっていた。

4番最初の年は、試合用のバットを1000gの重いバットを使うようになり、まだ、そのバットを振り切れないことから、打率.250、本塁打15本と散々な成績となりました。

最悪のシーズンオフのキャンプでは、アキレス腱を断裂して、次のシーズンはほとんど出場も出来ない年に終わる。

けがも治り、復帰してからは、足に負担の掛からない野球を考え、悩んだ末。一つの結論に・・・。

「ホームランを打てば足に負担はかからない。これからは全打席ホームランを狙う」

という結論に至り、それからは、徹底した長打狙いのフルスイングをし、41本の本塁打を放った。その翌年には、44本塁打で初めての本塁打王に輝いたのだった。

初めての本塁打王に輝いた年には、月間で16本塁打を放つ成績を残している。

晩年の本塁打王。そのすごさとは・・・。

門田博光と言えば、何と言っても、40歳で40本以上の本塁打を放ったことだろう。
40歳で引退と言われるプロ野球界において、1988年の40歳の年には、打率.311、44本塁打、125打点で本塁打王、打点王、さらにMVPにも輝き、日本初の快挙を成し遂げた。

この年に、南海ホークスは身売りが決定したことも、門田の記録に拍車をかけたのかもしれない。

40歳でMVPになったのは、プロ野球史上で最年長記録であり、考えられない成績から「不惑の大砲」と名付けられたのだった。

その後も、42歳で31本。44歳で7本と、それぞれの年齢別で最多本塁打記録を作っている。

【1988年プロ野球】門田博光 不惑の年の大活躍 - YouTube

僕の記憶が確かならば、当時、野茂から本塁打を放った門田がいて、その打席は、自ら、甘い球になるように、一球ごとにバッターボックスの立つ位置を変えて、本塁打を打った甘い球を投球した瞬間に移動して、ライトスタンドへ運んだのだ。

長年の経験と、すさまじいヘッドスピードを持ってこそ、成し遂げれる巧の本塁打だったと言えるだろう。

現役は老衰が原因で退き、その後の門田は野球界向上に努める!

引退後の門田博光

引退後の門田博光

1993年から2005年まで朝日放送(ABC)の野球解説者を務めた。1993年、1994年はスポーツニッポン評論家、1995年、1996年は日刊スポーツ評論家も務めた。2006年、野球殿堂入り。7月21日に神宮球場でのオールスターゲーム第1戦で行われた野球殿堂入り表彰式に、病気療養中ながら姿を見せている。
2009年に大阪ホークスドリームを設立し、総監督となる。2011年6月、田中実監督が解任されたため、新監督に就任。同年9月、契約満了に伴い退任。
また、日本新薬硬式野球部の臨時コーチも務めている。
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