UWFインターナショナル設立~解散
自分がTOPにならないと気がすまない人がそれぞれ団体を設立。
高田も自分が社長となりUFWインターナショナルを設立。
高田も自分が社長となりUFWインターナショナルを設立。
UWFインターナショナルを設立し、社長に就任。「最強」を肩書きにした高田は団体の絶対的エースとして、ゲーリー・オブライト、北尾光司、スーパー・ベイダー、サルマン・ハシミコフら強豪選手との対戦などで人気を博し、1992年にはプロレス大賞のMVPである年間最優秀選手に選ばれる。
高田選手のハイキックによるKO勝ちは故意に試合を終わらせるために放った物ではなく、放った1発があまりに強烈にヒットしたためにブック通りの決着が出来なくなった事が「泣き虫」の証言から読み取れます。もっとも高田選手はルール決めの際に、あのトレバー・バービック選手が嫌がった蹴りについてどのような制限を設けるか聞いた所、「別に構いません。どうぞ思いっきり蹴ってきて下さい」と北尾選手があっさり言いのけた事に立腹していたらしいので、多少の個人的感情も入っていたのかもしれません。
1994年4月からはフジテレビのスポーツニュース番組「スポーツWAVE」のキャスターを務めるまでになる(試合があった日も生放送に出演していた)。1994年1月にタレントの向井亜紀と挙式した。
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UWFインターは新日本プロレスとの対抗戦に踏み切り、1995年10月9日「新日本プロレス VS UWFインターナショナル全面戦争」における大将戦・武藤敬司(IWGPヘビー級王者)戦に敗北したことで、最強を標榜してきた高田とUWFインターは決定的なイメージダウンを受ける。
その後、WARに参戦して交流試合を行い、天龍源一郎と2度のシングルマッチを行い天龍との試合はプロレス大賞の年間最高試合に選ばれる。
高田延彦 vs アブドーラ・ザ・ブッチャー(大阪) - YouTube
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しかし、UWFインターの運営は混迷し、山崎に続いて、6月には田村潔司や中野龍雄が退団。10月にはインディー団体「東京プロレス」に参戦し、従来の路線からすればありえないマッチメイクであったブッチャーとのシングルマッチを行ってまでなんとか団体の存続を図ったが、1996年12月にUWFインターナショナルは解散した。
この後は、今までの経験を生かし社長にはならず自己プロデュース能力を磨いた高田はヒクソン戦を経て、PRIDE~ハッスル~高田道場~タレント業と成功していくのであった。
おまけ(青春のエスペランサ面白画像)
ハッピーレストラン 西遊記 CM 【前田日明 高田延彦】 1989 - YouTube
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