UWFインターナショナルでデビューした高山善廣
大学に在学中、第一次UWFの入団テストを受け合格、入門するも続きませんでした。
その後、湘南でライフガードのアルバイト中にUWFの先輩である宮戸優光と再会、交流を続けていました。
大学卒業後、フジサンケイグループで営業マンをやりながらもプロレスラーの夢を捨てられず悩んでいたところ、宮戸に声を掛けられて旗揚げ間も無いUWFインターナショナルに再入門。1992年6月、金原弘光戦でデビューします。
その後、湘南でライフガードのアルバイト中にUWFの先輩である宮戸優光と再会、交流を続けていました。
大学卒業後、フジサンケイグループで営業マンをやりながらもプロレスラーの夢を捨てられず悩んでいたところ、宮戸に声を掛けられて旗揚げ間も無いUWFインターナショナルに再入門。1992年6月、金原弘光戦でデビューします。
団体の経営が厳しくなり、他団体との交流戦などによる話題創出に動いたUWFインターナショナル
「高田最強」でU信者を生み出すほどの熱狂を誇ったUWFインターナショナルですが、層の薄さから次第に経営が手詰まりに。
トラブルや相次ぐ選手離脱で団体崩壊が近づいたとき、UWFインターナショナルは新日本プロレスとの対抗戦に踏み切ります。
トラブルや相次ぐ選手離脱で団体崩壊が近づいたとき、UWFインターナショナルは新日本プロレスとの対抗戦に踏み切ります。
高山善廣は安生洋二、山本健一とゴールデン・カップスを結成
若き日の高山は、新日本プロレスとの全面対抗戦で「200%男」「ブーイング大王」の異名をとっていた安生洋二とともに、ゴールデン・カップスを結成します。
以下、UWFスタイルに固執してノーファール・カップの着用を拒否した挙句、金的蹴りで蝶野&天山組に敗れてしまった試合後の高山に向かって、記者団を前に。。。
以下、UWFスタイルに固執してノーファール・カップの着用を拒否した挙句、金的蹴りで蝶野&天山組に敗れてしまった試合後の高山に向かって、記者団を前に。。。
安生「ちゃんと金カップ付けろって言っただろう。金玉蹴ってくるの分かってんだから。」
高山「UWFなんだから、ここは!安生さん、あんまり目茶苦茶やってるとUWFが泣きますよ。何考えてるんすか。本当に!」
安生「オレが何したってんだ。金カップ付けてるだけだろうが、お前。バカ!」
高山「そんな事させてる様だからダメなんですよ!安生さん、ちょっと変ですよ。オカシ過ぎますよ!(記者団に向かって)エェ?金玉蹴った?勝てる奴が何だってんだ。次はオレがぶっ殺してやるよ!天山をよ!蝶野!」(と言い放ち立ち去る)
安生「ザ・ゴールデン・カップスって名前で行こうと思ってたんだけどな…。一から考え直さないと若い者は付いて来んな…。」 という珍問答を経て、徐々に安生ワールドを浸透させると、UWFスタイルの急先鋒とみられていた高山の懐柔に成功。続いて若手の山本も軍団入りさせ、1996年1月4日に「ザ・ゴールデン・カップス」の結成を宣言した。
【Mr.200%】安生洋二率いるゴールデンカップス結成のきっかけは? - Middle Edge(ミドルエッジ)
安生洋二率いるゴールデンカップスは新日本プロレスとの対抗戦で結成されました。そのリーダーであった安生は起伏に満ちた格闘家、レスラー人生を送りました。本記事でデビューから引退までを振り返ってみましょう。
以降、他団体との交流戦を続けることとなったUWFインターナショナル。
大会場で話題性抜群のカードを提供することに、団体存続の活路を見出そうとしたのです。
大会場で話題性抜群のカードを提供することに、団体存続の活路を見出そうとしたのです。
1996年9月11日、UWFインター神宮球場大会で全日本プロレスの川田利明と対戦
UWFインターナショナルの神宮球場大会に、当時鎖国政策を敷いていた全日本プロレスから川田利明が出場。
ちなみにこの日のメインは高田延彦対天龍源一郎、他に橋本真也等新日本プロレス勢も出場するという豪華なラインナップ。
しかしそんな中でも注目を集めたのが川田利明VS高山善廣でした。
そう、この日がまさに「プロレス界の帝王」高山がプロレスに覚醒する第一歩となったのです。
ちなみにこの日のメインは高田延彦対天龍源一郎、他に橋本真也等新日本プロレス勢も出場するという豪華なラインナップ。
しかしそんな中でも注目を集めたのが川田利明VS高山善廣でした。
そう、この日がまさに「プロレス界の帝王」高山がプロレスに覚醒する第一歩となったのです。
神宮球場のボルテージが最高潮に達した川田VS高山の一戦
ホームなのに何故かブーイングで迎えられてしまった、帝王として覚醒する前の高山。
鎖国政策下にあった全日本から、いきなりの主力級として登場した川田への声援はは凄まじいものがありました。
鎖国政策下にあった全日本から、いきなりの主力級として登場した川田への声援はは凄まじいものがありました。
via blogs.c.yimg.jp
196cmと恵まれた体躯から当時「UWF系のアンドレ」と呼ばれていた高山善廣でしたが、川田利明のジャンピング・ハイキックの前に完敗。
当時はまだ、お世辞にもレスリングのセンスはありませんでした。
これをきっかけに高山の目標は川田となり、「レスラーである限り川田を追う」とまで宣言して全日に参戦することとなります。
なおこの年の12月、UWF1インターナショナルはとうとう解散を迎えます。
当時はまだ、お世辞にもレスリングのセンスはありませんでした。
これをきっかけに高山の目標は川田となり、「レスラーである限り川田を追う」とまで宣言して全日に参戦することとなります。
なおこの年の12月、UWF1インターナショナルはとうとう解散を迎えます。
2002年、PRIDE.23で引退した高田延彦の「出てこいや!」は決してギャグでなく、90年代Uインターを知る者の涙を誘う名シーンだった! - Middle Edge(ミドルエッジ)
2002年11月24日、PRIDE.23のリングで引退した高田延彦。このとき引退試合の相手を務めた田村潔司への試合後のマイク「お前、男だ!」、そして大会ラストの「Uインター、上がってこいや!」はどちらも流行語となり、以降の高田は「出てこいや!」を持ちネタにすることとなります。しかし90年代Uインターを観ていた者にとって、この時の「上がってこいや!」はギャグなどでなく胸が熱くなる、そして涙を誘う名シーンであったことを忘れてはなりません。
12月のUWFインターナショナル解散後、関係者で立ち上げた受け皿団体・キングダムに移籍した高山。
しかし1997年になると、前年に敗れた川田利明を追ってフリーランスとして全日本プロレスに参戦開始します。
しかし1997年になると、前年に敗れた川田利明を追ってフリーランスとして全日本プロレスに参戦開始します。
1997年10月21日の武道館、川田利明と2度目のシングル
川田が高山に「Uスタイルで来い」と挑発したこの試合。
当時、川田は高山が全日本プロレススタイルに染まっていくことを危惧していたとも言われています。
結果、試合は実に全日本プロレスらしくない展開に。
約15分間、ほとんど手を出さずに高山の攻撃を受けまくった川田。
その上で川田が反撃を開始すると、およそ3分弱で高山は沈みました。
川田の、そして全日本プロレスの「受け」の凄さが際立ったこの一戦、試合後の川田のコメントは、「(高山の攻撃は)効いてない」でした。
その後もふたりの対戦は過激さを増し、1999年7月の後楽園ホールでは、川田は高山を顔面蹴りでKO。
当時、川田は高山が全日本プロレススタイルに染まっていくことを危惧していたとも言われています。
結果、試合は実に全日本プロレスらしくない展開に。
約15分間、ほとんど手を出さずに高山の攻撃を受けまくった川田。
その上で川田が反撃を開始すると、およそ3分弱で高山は沈みました。
川田の、そして全日本プロレスの「受け」の凄さが際立ったこの一戦、試合後の川田のコメントは、「(高山の攻撃は)効いてない」でした。
その後もふたりの対戦は過激さを増し、1999年7月の後楽園ホールでは、川田は高山を顔面蹴りでKO。
Kawada Vs Takayama 7-17-99
via www.youtube.com