「Uインター出身の奴ら、ちょっと上がってこいや!」
後に自らデフォルメ化し「出てこいや!」に変わったそのフレーズ、本当は
「Uインター出身の奴ら、ちょっと上がってこいや!」だったんです。
それも「皆さん分からないかもしれないんですけど、Uインターというものが・・・」と観客に向かってきちんと前置きしたうえで。
1996年12月27日、後楽園ホール大会を最後に解散したUWFインターナショナルは良くも悪くもお騒がせなプロレス団体。高田信者と呼ばれるほどの熱狂と混乱を巻き起こし、まさに一世風靡した団体でした。
それから6年経った2002年、しかし当時のファンにとってUインターの興奮は忘れるはずもない出来事。
Uインターの後はヒクソン・グレイシー相手の完敗など、「最強」から一転「弱虫」扱いされた高田延彦。
そんな彼を見続けたファンは、PRIDEのリングで引退する高田からまさかの「Uインター」の言葉、そしてその言葉に呼応してリングに上がって来るUの戦士たちを観て間違いなく胸が熱くなったことでしょう。
「高山!金原!田村!安生!垣原!宮戸!中野!」
これはギャグなどではなく、Uの歴史を知る人間の涙を誘う感動の一幕だったんです。
「Uインター出身の奴ら、ちょっと上がってこいや!」だったんです。
それも「皆さん分からないかもしれないんですけど、Uインターというものが・・・」と観客に向かってきちんと前置きしたうえで。
1996年12月27日、後楽園ホール大会を最後に解散したUWFインターナショナルは良くも悪くもお騒がせなプロレス団体。高田信者と呼ばれるほどの熱狂と混乱を巻き起こし、まさに一世風靡した団体でした。
それから6年経った2002年、しかし当時のファンにとってUインターの興奮は忘れるはずもない出来事。
Uインターの後はヒクソン・グレイシー相手の完敗など、「最強」から一転「弱虫」扱いされた高田延彦。
そんな彼を見続けたファンは、PRIDEのリングで引退する高田からまさかの「Uインター」の言葉、そしてその言葉に呼応してリングに上がって来るUの戦士たちを観て間違いなく胸が熱くなったことでしょう。
「高山!金原!田村!安生!垣原!宮戸!中野!」
これはギャグなどではなく、Uの歴史を知る人間の涙を誘う感動の一幕だったんです。
「Uインター出身の奴ら、ちょっと上がってこいや!」のシーン
髙田伸彦 引退
via www.youtube.com
プロレスラー高田延彦とUWFインターナショナル
1980年、新日本プロレスに入団
1980年に新日本プロレス入団、道場では藤原喜明と前田日明が兄貴分的な存在となり、スパーリングで鍛えられることに。1981年5月9日に保永昇男戦でデビューします。
翌1982年からはアントニオ猪木の付き人を務め、1983年に猪木がカナダ遠征をした際に付き人として同行。
欠場した初代タイガーマスクの代わりにたまたま試合に出場したところ、ジャパニーズレッグロールクラッチで勝ちを収め、高田のテレビ中継デビュー試合でもあり、ポスト・タイガーマスクとして一躍注目を集める存在に。
翌1982年からはアントニオ猪木の付き人を務め、1983年に猪木がカナダ遠征をした際に付き人として同行。
欠場した初代タイガーマスクの代わりにたまたま試合に出場したところ、ジャパニーズレッグロールクラッチで勝ちを収め、高田のテレビ中継デビュー試合でもあり、ポスト・タイガーマスクとして一躍注目を集める存在に。
我が「青春のエスペランサ」髙田延彦はUWFインター解散までが輝いていた!! - Middle Edge(ミドルエッジ)
バラエティで活躍するプロレスラーと言えば、髙田か健介である。そんな髙田延彦が一番輝いていた新日本~UWFインターまでを振り返ってみた。
第1次UWF-新日本プロレス-第2次UWF
1984年に師匠藤原喜明の誘いで新日本プロレスを離脱、UWF(旧UWF、第1次UWF)に移籍して前田日明と合流。
しかしこの団体は崩壊し、UWF所属レスラーは新日へ合流。新日に参戦した期間にはIWGPジュニアヘビー級王座のベルトを争うことに。
当時「ワールドプロレスリング」実況を担当していた古舘伊知郎からは「わがままな膝小僧」の異名を付けられることも(キックを多用するファイトスタイルのため)。
1988年、前田日明、山崎一夫らとともに第2次UWF立ち上げ。第2次UWFでは前田に次ぐナンバー2の序列で、同団体は一世風靡したものの、人間関係の不和から、1991年に前田のリングス、藤原喜明の藤原組、高田のUWFインターナショナルの三団体に分裂してしまうことに。
しかしこの団体は崩壊し、UWF所属レスラーは新日へ合流。新日に参戦した期間にはIWGPジュニアヘビー級王座のベルトを争うことに。
当時「ワールドプロレスリング」実況を担当していた古舘伊知郎からは「わがままな膝小僧」の異名を付けられることも(キックを多用するファイトスタイルのため)。
1988年、前田日明、山崎一夫らとともに第2次UWF立ち上げ。第2次UWFでは前田に次ぐナンバー2の序列で、同団体は一世風靡したものの、人間関係の不和から、1991年に前田のリングス、藤原喜明の藤原組、高田のUWFインターナショナルの三団体に分裂してしまうことに。
前田日明 アキラ現れるところ乱あり - Middle Edge(ミドルエッジ)
前田日明をみているとその強さだけではなくなにか訴えかけてくるもの、メッセージ性を感じてしまう前田日明にはスタイルがあり意志がありそして恐らく今も夢がありそれを追い続けていることだろう
藤原喜明 藤原喜明ならヒクソン・グレーシーを極めてしまうかもしれない - Middle Edge(ミドルエッジ)
キャリア36年新日本プロレス、UWF、プロフェッショナルレスリング藤原組を渡り歩き胃ガンを乗り越えリング復帰を果たした一見努力人、苦労人と思われがちだが実際は天才的な面を持っている総合格闘技に対して本人は「自分にはテイクダウンの技術がないから」と謙遜だがファンは幻想を抱き続けている「藤原喜明ならヒクソン・グレーシーを極めてしまうかもしれない」と
山崎一夫 「困ったときは山ちゃん」 みんなのために密かにがんばって密かに泣いて、そしてみんなに好かれている山ちゃん - Middle Edge(ミドルエッジ)
プロレス業界においてちゃんとしていてるイメージもある山崎一夫 「いや常識人というか、ただ周りにそうじゃないひとが多かったんで、新日本の道場に入って寮長が前田(日明)さんなわけで、そこからおかしいじゃないですか(笑)」
UWFインターナショナルの社長として「最強」を肩書きとした絶対的エースへ
ゲーリー・オブライト、北尾光司、スーパー・ベイダー、サルマン・ハシミコフら強豪選手との対戦などで人気を博し、1992年にはプロレス大賞のMVPである年間最優秀選手に。
19921023 UWF 高田延彦 vs 北尾光司
via www.youtube.com
しかし当時は高田以外に知名度のある選手がほとんどおらず、スポンサーやテレビもつかないなかで団体の運営は困窮。
プロレス興行においては一時のカンフル剤的要素が強い、他団体との交流戦などによる話題創出にも動きます。
プロレス興行においては一時のカンフル剤的要素が強い、他団体との交流戦などによる話題創出にも動きます。
【一億円トーナメント事件】UWFインターがメジャー5団体のエースに参加を呼びかけた幻のトーナメント! - Middle Edge(ミドルエッジ)
キミは幻の一億円トーナメントを知っているか?高田延彦率いるUWFインターがプロレス最強を決めようと主要5団体のエースに声をかけたこのトーナメント、幻に終わったが実現したらどうなっていただろう。
トラブルや相次ぐ選手離脱で団体崩壊が近づいたとき、UWFインターはとうとう新日本プロレスとの対抗戦に踏み切ります。
1995年10月9日「新日本プロレス VS UWFインターナショナル全面戦争」における大将戦・武藤敬司(IWGPヘビー級王者)戦に敗北したことで、最強を標榜してきた高田とUWFインターは決定的なイメージダウン。高田最強伝説、U神話が崩れ去る瞬間でした。
1995年10月9日「新日本プロレス VS UWFインターナショナル全面戦争」における大将戦・武藤敬司(IWGPヘビー級王者)戦に敗北したことで、最強を標榜してきた高田とUWFインターは決定的なイメージダウン。高田最強伝説、U神話が崩れ去る瞬間でした。
高田延彦 vs 武藤敬司 10・9 入場
via www.youtube.com