2002年、PRIDE.23で引退した高田延彦の「出てこいや!」は決してギャグでなく、90年代Uインターを知る者の涙を誘う名シーンだった!
2016年11月25日 更新

2002年、PRIDE.23で引退した高田延彦の「出てこいや!」は決してギャグでなく、90年代Uインターを知る者の涙を誘う名シーンだった!

2002年11月24日、PRIDE.23のリングで引退した高田延彦。このとき引退試合の相手を務めた田村潔司への試合後のマイク「お前、男だ!」、そして大会ラストの「Uインター、上がってこいや!」はどちらも流行語となり、以降の高田は「出てこいや!」を持ちネタにすることとなります。しかし90年代Uインターを観ていた者にとって、この時の「上がってこいや!」はギャグなどでなく胸が熱くなる、そして涙を誘う名シーンであったことを忘れてはなりません。

26,041 view

「Uインター出身の奴ら、ちょっと上がってこいや!」

後に自らデフォルメ化し「出てこいや!」に変わったそのフレーズ、本当は

「Uインター出身の奴ら、ちょっと上がってこいや!」だったんです。

それも「皆さん分からないかもしれないんですけど、Uインターというものが・・・」と観客に向かってきちんと前置きしたうえで。

1996年12月27日、後楽園ホール大会を最後に解散したUWFインターナショナルは良くも悪くもお騒がせなプロレス団体。高田信者と呼ばれるほどの熱狂と混乱を巻き起こし、まさに一世風靡した団体でした。

それから6年経った2002年、しかし当時のファンにとってUインターの興奮は忘れるはずもない出来事。
Uインターの後はヒクソン・グレイシー相手の完敗など、「最強」から一転「弱虫」扱いされた高田延彦。

そんな彼を見続けたファンは、PRIDEのリングで引退する高田からまさかの「Uインター」の言葉、そしてその言葉に呼応してリングに上がって来るUの戦士たちを観て間違いなく胸が熱くなったことでしょう。

「高山!金原!田村!安生!垣原!宮戸!中野!」

これはギャグなどではなく、Uの歴史を知る人間の涙を誘う感動の一幕だったんです。

「Uインター出身の奴ら、ちょっと上がってこいや!」のシーン

髙田伸彦 引退

プロレスラー高田延彦とUWFインターナショナル

1980年、新日本プロレスに入団

1980年に新日本プロレス入団、道場では藤原喜明と前田日明が兄貴分的な存在となり、スパーリングで鍛えられることに。1981年5月9日に保永昇男戦でデビューします。

翌1982年からはアントニオ猪木の付き人を務め、1983年に猪木がカナダ遠征をした際に付き人として同行。
欠場した初代タイガーマスクの代わりにたまたま試合に出場したところ、ジャパニーズレッグロールクラッチで勝ちを収め、高田のテレビ中継デビュー試合でもあり、ポスト・タイガーマスクとして一躍注目を集める存在に。

第1次UWF-新日本プロレス-第2次UWF

1984年に師匠藤原喜明の誘いで新日本プロレスを離脱、UWF(旧UWF、第1次UWF)に移籍して前田日明と合流。
しかしこの団体は崩壊し、UWF所属レスラーは新日へ合流。新日に参戦した期間にはIWGPジュニアヘビー級王座のベルトを争うことに。
当時「ワールドプロレスリング」実況を担当していた古舘伊知郎からは「わがままな膝小僧」の異名を付けられることも(キックを多用するファイトスタイルのため)。

1988年、前田日明、山崎一夫らとともに第2次UWF立ち上げ。第2次UWFでは前田に次ぐナンバー2の序列で、同団体は一世風靡したものの、人間関係の不和から、1991年に前田のリングス、藤原喜明の藤原組、高田のUWFインターナショナルの三団体に分裂してしまうことに。

UWFインターナショナルの社長として「最強」を肩書きとした絶対的エースへ

ゲーリー・オブライト、北尾光司、スーパー・ベイダー、サルマン・ハシミコフら強豪選手との対戦などで人気を博し、1992年にはプロレス大賞のMVPである年間最優秀選手に。

19921023 UWF 高田延彦 vs 北尾光司

しかし当時は高田以外に知名度のある選手がほとんどおらず、スポンサーやテレビもつかないなかで団体の運営は困窮。
プロレス興行においては一時のカンフル剤的要素が強い、他団体との交流戦などによる話題創出にも動きます。
トラブルや相次ぐ選手離脱で団体崩壊が近づいたとき、UWFインターはとうとう新日本プロレスとの対抗戦に踏み切ります。

1995年10月9日「新日本プロレス VS UWFインターナショナル全面戦争」における大将戦・武藤敬司(IWGPヘビー級王者)戦に敗北したことで、最強を標榜してきた高田とUWFインターは決定的なイメージダウン。高田最強伝説、U神話が崩れ去る瞬間でした。

高田延彦 vs 武藤敬司 10・9 入場

52 件

思い出を語ろう

     
  • 記事コメント
  • Facebookでコメント
  • コメントはまだありません

    コメントを書く
    ※投稿の受け付けから公開までお時間を頂く場合があります。

あなたにおすすめ

関連する記事こんな記事も人気です♪

第2次UWF崩壊 弾け散ったパワー・オブ・ドリーム

第2次UWF崩壊 弾け散ったパワー・オブ・ドリーム

1984年4月11日に旗揚げした第1次UWFは、様々な事件と前田日明と佐山聡のケンカマッチを経て1年半で崩壊。屈辱の新日本プロレス出戻り生活も前田日明が暴れまくったため2年半で終了。再旗揚げした第2次UWFは、社会現象といわれるほど若者を熱狂させながら、2年7ヵ月の活動にピリオドを打った。
RAOH | 1,909 view
UWF vs 新日本プロレス 新日本プロレスに戻ったUWFはプロレス最強神話を終わらせた。

UWF vs 新日本プロレス 新日本プロレスに戻ったUWFはプロレス最強神話を終わらせた。

経営難のために新日本プロレスに出戻ったUWF。両団体は己のスタイルを貫き、抗争を繰り広げた。中でも前田日明は、アンドレ・ザ・ジャイアント、藤波辰巳、長州力を血祭りにあげた上、キックボクサー、ドン・ナカヤ・ニールセンとの異種格闘技戦も劇的に勝利。アントニオ猪木に代わる「新格闘王」という称号を得た。
RAOH | 3,914 view
怒涛の第1次UWF  うなるキック、軋む関節   社長逮捕 スポンサー刺殺 2枚の血判状

怒涛の第1次UWF うなるキック、軋む関節 社長逮捕 スポンサー刺殺 2枚の血判状

新日本プロレスの営業本部長だった新間寿が黒い感情を持って立ち上げたUWF.。しかしそれは選手やスタッフの熱くて純粋な思いに浄化され、超マイナーだが超前衛的なUWFは若者の圧倒的支持を受けた。しかしスポンサー会社社長刺殺、UWF社長の逮捕と事件が続き、ついに前田日明と佐山サトルのケンカマッチが起こってしまう。
RAOH | 10,326 view
【垣原賢人】直情一直線、安全策ナシの人生!そしてUの戦士カッキ―はミヤマ☆仮面となる!!

【垣原賢人】直情一直線、安全策ナシの人生!そしてUの戦士カッキ―はミヤマ☆仮面となる!!

垣原賢人は往年のプロレスファンにとってUWFを愛する「Uの戦士」、お子様連れのファミリーにとってはクワガタを愛し”クワレス”を主催する「ミヤマ☆仮面」。悪性リンパ腫と闘いながらも2017年8月14日、後楽園ホールにて「カッキーライド~垣原賢人復帰戦~」を開催する垣原賢人、その安全策ナシに直情一直線な人生をご覧いただきたい。
後に「プロレス界の帝王」に上り詰めた高山善廣!その覇道は全日本プロレス、川田利明との遭遇から始まった!!

後に「プロレス界の帝王」に上り詰めた高山善廣!その覇道は全日本プロレス、川田利明との遭遇から始まった!!

大森隆男とのタッグ「ノーフィアー」で全日本プロレス、プロレスリング・ノアに旋風を巻き起こし、フリー転身後は各団体を渡り歩いてメジャータイトルを総ナメ、PRIDEに出場すればドン・フライと壮絶な殴り合いをやって見せる。いつしか「プロレス界の帝王」として君臨することとなった高山善廣。彼の覇道は、UWFインターナショナルのリングで遭遇した川田利明との一戦から始まりました。
青春の握り拳 | 32,709 view

この記事のキーワード

カテゴリ一覧・年代別に探す

あの頃ナウ あなたの「あの頃」を簡単検索!!「生まれた年」「検索したい年齢」を選択するだけ!
リクエスト