剛腕継承 小島聡
via matome.naver.jp
主な獲得タイトル
【新日本プロレス】
IWGPヘビー級王座 : 2回(第41代、55代)
IWGPタッグ王座 : 6回(第31代、36代、40代、58代、60代、62代)
※パートナーは中西学、後の5回は天山広吉
G1 CLIMAX優勝 : 1回(2010年)
G1 TAG LEAGUE優勝 : 3回(1998年、2001年、2008年)
※パートナーは最初が武藤敬司→後の2回は天山広吉
【全日本プロレス】
三冠ヘビー級王座 : 2回(第33代、40代)
世界タッグ王座 : 3回(第47代、49代、53代)
※パートナーは太陽ケア、カズ・ハヤシ、TARU
アジアタッグ王座 : 1回(第75代)
※グレート・コスケとして、パートナーは獅龍
チャンピオン・カーニバル優勝 : 1回(2003年)
世界最強タッグ決定リーグ戦優勝 : 4回(2002年、2003年、2006年、2008年)
※パートナーは太陽ケア、カズ・ハヤシ、後の2回は天山広吉
【ZERO-ONE】
火祭り優勝 : 1回(2003年)
【NWA】
NWA世界ヘビー級王座 : 1回(第125代)
NWA世界タッグ王座 : 1回(第75代)
※パートナーは天山広吉
【WLW】
MLW世界ヘビー級王座 : 1回(第2代)
【プロレス大賞】
2000年度 / 最優秀タッグチーム賞(パートナー天山広吉)
2002年度 / 技能賞
2005年度 / 最優秀選手賞(MVP)
2010年度 / 敢闘賞
IWGPヘビー級王座 : 2回(第41代、55代)
IWGPタッグ王座 : 6回(第31代、36代、40代、58代、60代、62代)
※パートナーは中西学、後の5回は天山広吉
G1 CLIMAX優勝 : 1回(2010年)
G1 TAG LEAGUE優勝 : 3回(1998年、2001年、2008年)
※パートナーは最初が武藤敬司→後の2回は天山広吉
【全日本プロレス】
三冠ヘビー級王座 : 2回(第33代、40代)
世界タッグ王座 : 3回(第47代、49代、53代)
※パートナーは太陽ケア、カズ・ハヤシ、TARU
アジアタッグ王座 : 1回(第75代)
※グレート・コスケとして、パートナーは獅龍
チャンピオン・カーニバル優勝 : 1回(2003年)
世界最強タッグ決定リーグ戦優勝 : 4回(2002年、2003年、2006年、2008年)
※パートナーは太陽ケア、カズ・ハヤシ、後の2回は天山広吉
【ZERO-ONE】
火祭り優勝 : 1回(2003年)
【NWA】
NWA世界ヘビー級王座 : 1回(第125代)
NWA世界タッグ王座 : 1回(第75代)
※パートナーは天山広吉
【WLW】
MLW世界ヘビー級王座 : 1回(第2代)
【プロレス大賞】
2000年度 / 最優秀タッグチーム賞(パートナー天山広吉)
2002年度 / 技能賞
2005年度 / 最優秀選手賞(MVP)
2010年度 / 敢闘賞
必殺技
ラリアット
●ぶん殴りラリアット(バカヤローラリアット、自称世界一ラリアット)
ハンセンに指導を受ける以前のスタイルで、助走をつけて大振りで力任せにマットに叩き付ける。
「世界一のラリアッター」を自称しながら1試合中に乱発していたため、ラリアットに一撃必殺を求めるファンからはしょっぱい、塩と酷評され評価が低かった。
フィニッシュとして使用する際は、インパクトの瞬間に両膝をついて浴びせ倒しながら相手の後頭部を確実にマットへ叩きつける改良もしていた。
●ラリアット(小島式ウエスタンラリアット、継承ウエスタンラリアット)
全日本プロレス入団後、PWF会長として来日していたスタン・ハンセンより直接指導を受けた。
ハンセンのラリアットからヒントを得てラリアットを習得したレスラーは数多くいるが、直接指導を受けたのは小島が初めてである。
そのため小島のラリアットを「継承ウエスタン・ラリアット」「豪腕ラリアット」と呼ぶこともある。
ぶん殴りラリアットと違い、インパクトの瞬間にカチ上げるように打ち出すのが特徴。
使用頻度を少なくすることでフィニッシュ・ホールドとしての説得力を獲得している。
ロープカウンターからの一撃や後頭部へ放つもの、左腕で放つもの、エプロンで油断している相手の足へ場外から放つもの、ショートレンジ式など打ち出し方もバリエーション豊かである。
ハンセンに指導を受ける以前のスタイルで、助走をつけて大振りで力任せにマットに叩き付ける。
「世界一のラリアッター」を自称しながら1試合中に乱発していたため、ラリアットに一撃必殺を求めるファンからはしょっぱい、塩と酷評され評価が低かった。
フィニッシュとして使用する際は、インパクトの瞬間に両膝をついて浴びせ倒しながら相手の後頭部を確実にマットへ叩きつける改良もしていた。
●ラリアット(小島式ウエスタンラリアット、継承ウエスタンラリアット)
全日本プロレス入団後、PWF会長として来日していたスタン・ハンセンより直接指導を受けた。
ハンセンのラリアットからヒントを得てラリアットを習得したレスラーは数多くいるが、直接指導を受けたのは小島が初めてである。
そのため小島のラリアットを「継承ウエスタン・ラリアット」「豪腕ラリアット」と呼ぶこともある。
ぶん殴りラリアットと違い、インパクトの瞬間にカチ上げるように打ち出すのが特徴。
使用頻度を少なくすることでフィニッシュ・ホールドとしての説得力を獲得している。
ロープカウンターからの一撃や後頭部へ放つもの、左腕で放つもの、エプロンで油断している相手の足へ場外から放つもの、ショートレンジ式など打ち出し方もバリエーション豊かである。
プロレスラーとしての道のり ~新日本プロレス~
サラリーマンから新日本プロレスへ
学生時代に格闘技のバックボーンを持っていない。(柔道経験があるが特に記録は持っていない)
一度はノーリツに就職し、サラリーマン生活を送るものの退職し、アニマル浜口ジムでトレーニングを積み、1991年2月新日本プロレスに入門した。
同年7月、山本広吉(現:天山広吉)戦でデビュー。
1994年、ヤングライオン杯で全勝優勝を飾り、海外遠征に出発。
1996年に凱旋帰国、中西学とブルパワーズを結成しIWGPタッグ王座を獲得するなど活躍する。
一度はノーリツに就職し、サラリーマン生活を送るものの退職し、アニマル浜口ジムでトレーニングを積み、1991年2月新日本プロレスに入門した。
同年7月、山本広吉(現:天山広吉)戦でデビュー。
1994年、ヤングライオン杯で全勝優勝を飾り、海外遠征に出発。
1996年に凱旋帰国、中西学とブルパワーズを結成しIWGPタッグ王座を獲得するなど活躍する。
nWo JAPAN ~ TEAM2000
怪我で長期欠場していた復帰後の1998年に武藤敬司に誘われnWo JAPANに加入、自身初のヒール転向をする。
体格やファイトスタイルが重複していた天山広吉とタッグを組む機会が増え、「テンコジ」として知られるようになる。
その後nWoが蝶野正洋率いるTEAM 2000に吸収されると、IWGPタッグ王座を当時の最高記録である6度防衛を果たすなど名タッグとして活躍する。
しかし、武藤敬司に追随する形で2002年1月31日に新日本プロレスを退団する。
体格やファイトスタイルが重複していた天山広吉とタッグを組む機会が増え、「テンコジ」として知られるようになる。
その後nWoが蝶野正洋率いるTEAM 2000に吸収されると、IWGPタッグ王座を当時の最高記録である6度防衛を果たすなど名タッグとして活躍する。
しかし、武藤敬司に追随する形で2002年1月31日に新日本プロレスを退団する。
via enuhito.com
1999年 蝶野正洋、AKIRA、ドン・フライ組 vs 武藤敬司、天山広吉、小島聡組
軍団内での覇権争いにて、蝶野派と武藤派で抗争をしている頃の試合
via www.youtube.com
プロレスラーとしての道のり ~全日本プロレス~
タッグ屋から三冠王者へ
2002年2月26日、全日本プロレスに電撃入団。
2003年、ZERO-ONEの火祭り、チャンピオン・カーニバル、世界最強タッグ決定リーグ戦優勝など、数々の実績を残した。
2004年、7月のプロレスリング・NOAH東京ドーム大会で試合を終えた三沢光晴に対戦を直訴し、古巣に呼び寄せる形でシングルマッチが実現した。
2005年2月16日、東京代々木競技場第二体育館で川田利明を破り悲願の第33代三冠ヘビー級王者に就く。
2003年、ZERO-ONEの火祭り、チャンピオン・カーニバル、世界最強タッグ決定リーグ戦優勝など、数々の実績を残した。
2004年、7月のプロレスリング・NOAH東京ドーム大会で試合を終えた三沢光晴に対戦を直訴し、古巣に呼び寄せる形でシングルマッチが実現した。
2005年2月16日、東京代々木競技場第二体育館で川田利明を破り悲願の第33代三冠ヘビー級王者に就く。
2004年 両国国技館 小島聡 vs 三沢光晴
後の川田利明との三冠戦につながる試合。
via www.youtube.com
2005年 代々木競技場第二体育館 川田利明 vs 小島聡
ダイジェストになりますが、三冠王者となる試合。
via www.youtube.com
全日本と新日本の至宝独占
三冠王者になって4日後、新日本プロレスの盟友天山広吉が保持するIWGPヘビー級王座とのWタイトルマッチで勝利し、第41代IWGPヘビー級王者となり、全日本と新日本の至宝タイトルを独占した。
試合後にはIWGPベルトをリングに投げ捨てるなどの過激な挑発を行い、同年5月14日に陥落するまでの間、一度もIWGPベルトを巻かなかった。
その理由として「新日本に居たときは喉から手が出るほど手にしたかったIWGPだけど、今の俺は全日本プロレスの小島聡だから」と理由を述べている。
四冠王者(三冠ヘビー級王座、IWGPヘビー級王座)を奪取したことと、川田、武藤、佐々木健介らを撃破して三冠を防衛した実績を評価され、2005年度のプロレス大賞MVPを獲得する。
試合後にはIWGPベルトをリングに投げ捨てるなどの過激な挑発を行い、同年5月14日に陥落するまでの間、一度もIWGPベルトを巻かなかった。
その理由として「新日本に居たときは喉から手が出るほど手にしたかったIWGPだけど、今の俺は全日本プロレスの小島聡だから」と理由を述べている。
四冠王者(三冠ヘビー級王座、IWGPヘビー級王座)を奪取したことと、川田、武藤、佐々木健介らを撃破して三冠を防衛した実績を評価され、2005年度のプロレス大賞MVPを獲得する。
via blog.livedoor.jp
ヒール転向~ユニット結成~退団へ
2006年は、「チャレンジする王者」を目標に掲げ、新日本のG1 CLIMAXへ5年ぶりに出場し、準優勝。
7月に太陽ケアに敗れて三冠王座を失うも、年末の世界最強タッグ決定リーグ戦では天山とのタッグ「テンコジ」を復活させ、優勝を果たした。
2007年、3月のチャンピオン・カーニバルでは予選落ち。
その後のシリーズも不調が続き、6月にVOODOO-MURDERSへ加入、全日本移籍後、初めてヒールとして活動することになった。
8月26日、両国国技館においてTARUとタッグを組んで川田利明&太陽ケア組が保持する世界タッグ王座に挑戦。これに勝利し、同王座を戴冠する。
2008年、1月の世界タッグ初防衛戦で武藤敬司&ジョー・ドーリング組に敗れて同王座から陥落する。
3月、チャンピオン・カーニバル後に右肘負傷のため欠場していたが、7月8日、新日本の後楽園ホール大会でリングに登場した。
翌日には2年ぶりにG1に出場することが決定し、20日には全日本の後楽園ホール大会で復帰した。
8月、TARUとの仲違いからVOODOO-MURDERSを離脱した。
G1からコスチュームを変更したが、最終日の試合でTARUの乱入によって真壁刀義に敗れ、決勝進出を逃した。
同月、大和ヒロシとKAIと共に「F4」を結成。
11月、天山とのタッグでG1 TAG LEAGUEと世界タッグリーグ戦に優勝し、同年両団体のタッグリーグ戦を制覇した。
2009年、9月の横浜文化体育館において高山善廣の保持する三冠王座に挑戦し勝利、小島自身2度目の三冠王座戴冠を果たす。
2010年、2月7日の後楽園ホール大会にてF4とVOODOO-MURDERSとの負けたら解散マッチに敗れF4を解散。
3月21日には浜亮太に敗れ、保持していた三冠ヘビー級王座も失う。
5月31日、全日本プロレス退団。
7月に太陽ケアに敗れて三冠王座を失うも、年末の世界最強タッグ決定リーグ戦では天山とのタッグ「テンコジ」を復活させ、優勝を果たした。
2007年、3月のチャンピオン・カーニバルでは予選落ち。
その後のシリーズも不調が続き、6月にVOODOO-MURDERSへ加入、全日本移籍後、初めてヒールとして活動することになった。
8月26日、両国国技館においてTARUとタッグを組んで川田利明&太陽ケア組が保持する世界タッグ王座に挑戦。これに勝利し、同王座を戴冠する。
2008年、1月の世界タッグ初防衛戦で武藤敬司&ジョー・ドーリング組に敗れて同王座から陥落する。
3月、チャンピオン・カーニバル後に右肘負傷のため欠場していたが、7月8日、新日本の後楽園ホール大会でリングに登場した。
翌日には2年ぶりにG1に出場することが決定し、20日には全日本の後楽園ホール大会で復帰した。
8月、TARUとの仲違いからVOODOO-MURDERSを離脱した。
G1からコスチュームを変更したが、最終日の試合でTARUの乱入によって真壁刀義に敗れ、決勝進出を逃した。
同月、大和ヒロシとKAIと共に「F4」を結成。
11月、天山とのタッグでG1 TAG LEAGUEと世界タッグリーグ戦に優勝し、同年両団体のタッグリーグ戦を制覇した。
2009年、9月の横浜文化体育館において高山善廣の保持する三冠王座に挑戦し勝利、小島自身2度目の三冠王座戴冠を果たす。
2010年、2月7日の後楽園ホール大会にてF4とVOODOO-MURDERSとの負けたら解散マッチに敗れF4を解散。
3月21日には浜亮太に敗れ、保持していた三冠ヘビー級王座も失う。
5月31日、全日本プロレス退団。
via www.angle-j.com
プロレスラーとしての道のり ~フリーを経て新日本プロレス再入団~
フリー~新日本プロレス再入団
2010年、7月に古巣である新日本プロレス後楽園ホール大会に来場し、G1 CLIMAX参戦を表明する。
8月、決勝で棚橋弘至を破りG1初制覇。
新日本プロレス所属外の選手として初のG1制覇者となった。
10月、真壁刀義に挑戦しIWGPヘビー級王座を奪取した。
2011年、1月4日レッスルキングダムにて、棚橋弘至に敗れIWGP王座から陥落する。
この時期よりTAKAみちのく、NOSAWA論外、タイチ、MVPらとのユニット「小島軍(仮)」として活動を開始する。
2月、仙台大会で棚橋の持つIWGP王座にリマッチするも、敗戦。
その後、真壁刀義と抗争を繰り広げ、幾度となくシングルマッチで激突。
5月、福岡大会で真壁との試合に敗れた後、TAKA、タイチ、鈴木みのる(後の鈴木軍)によって襲撃を受け、軍団から追放される。
襲撃を救助してくれた真壁と和解し、タッグを結成する。
8月、G1 CLIMAXに出場したが、最終日で天山広吉に敗れ決勝進出とG1連覇を逃した。
また、この試合で右眼眼窩底を骨折し欠場することとなる。
9月、新日本プロレス神戸大会で復帰戦及び新日本再入団をリング上で発表し、復帰戦の相手に天山広吉を指名した。
10月、両国大会で天山広吉を相手に復帰戦を行い、ラリアットで勝利収めた。
8月、決勝で棚橋弘至を破りG1初制覇。
新日本プロレス所属外の選手として初のG1制覇者となった。
10月、真壁刀義に挑戦しIWGPヘビー級王座を奪取した。
2011年、1月4日レッスルキングダムにて、棚橋弘至に敗れIWGP王座から陥落する。
この時期よりTAKAみちのく、NOSAWA論外、タイチ、MVPらとのユニット「小島軍(仮)」として活動を開始する。
2月、仙台大会で棚橋の持つIWGP王座にリマッチするも、敗戦。
その後、真壁刀義と抗争を繰り広げ、幾度となくシングルマッチで激突。
5月、福岡大会で真壁との試合に敗れた後、TAKA、タイチ、鈴木みのる(後の鈴木軍)によって襲撃を受け、軍団から追放される。
襲撃を救助してくれた真壁と和解し、タッグを結成する。
8月、G1 CLIMAXに出場したが、最終日で天山広吉に敗れ決勝進出とG1連覇を逃した。
また、この試合で右眼眼窩底を骨折し欠場することとなる。
9月、新日本プロレス神戸大会で復帰戦及び新日本再入団をリング上で発表し、復帰戦の相手に天山広吉を指名した。
10月、両国大会で天山広吉を相手に復帰戦を行い、ラリアットで勝利収めた。
2010年 両国国技館 G1CLIMAX優勝決定戦 棚橋弘至vs小島聡 ダイジェスト
G1CLIMAX史上初の所属選手以外の優勝。
新日本プロレスに参戦するにあたって最高のインパクトを与えた。
新日本プロレスに参戦するにあたって最高のインパクトを与えた。
via www.youtube.com
生年月日:1970年9月14日
出身地:東京都 江東区
身長:183cm
体重:112kg
所属:新日本プロレス
プロレスデビュー:1991年7月16日