【石毛宏典】もっともメジャーリーグに近かった男
2016年11月25日 更新

【石毛宏典】もっともメジャーリーグに近かった男

西部の黄金時代を築いたキープレイヤーの一人。走・攻・守備でずば抜けた才能を発揮し、当時まだメジャーへの挑戦という道が開かれていなかったにも関わらず、外国人選手からは「メジャーでも通用する選手」として一目置かれていた。毎年、シーズン前の抱負を語る時の「10割100本!(打率10割、ホームラン100本)」が忘れられない。

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【石毛宏典】基本情報

【石毛宏典】基本情報

出身地 : 千葉県旭市
生年月日 : 1956年9月22日
身長 : 180 cm
体重 : 75 kg
投球・打席 : 右投右打
ポジション : 三塁手、遊撃手

選手歴 :
銚子市立銚子高等学校
駒澤大学
プリンスホテル
西武ライオンズ (1981 - 1994)
福岡ダイエーホークス (1995 - 1996)

監督・コーチ歴  :
福岡ダイエーホークス (1998)
オリックス・ブルーウェーブ (2002 - 2003)
千葉商科大学付属高等学校

10割100本!毎年掲げていたシーズン目標!

最近のシーズン前の目標はと聞かれるプロ野球選手は、スターと呼ばれている選手でも「3割30本」程度の目標が多いように見受けられる。そんなプロ野球選手の中に、こんな目標を毎年掲げていた選手が石毛宏典という選手だった。

「10割100本!(打率10割、ホームラン100本)」

そんな石毛も高校時代では特に注目を集める選手ではなかった。

高校時代は銚子市立銚子高等学校で1番を打っていた。高校3年生の時には夏の甲子園の県予選決勝で勝てば甲子園出場というところまでは行ったが、銚子商に完封負けを喫し、甲子園出場を逃した。
石毛は同年のドラフト会議でロッテオリオンズから6位指名を受けるが、プロには行かず駒澤大学へと進学した。

駒澤大学では天国と地獄を味わうこととなった。

まず天国の話から。石毛は東都大学リーグで3年生までに5回の優勝を経験した。特に1977年の全日本大学野球選手権大会では、決勝で原辰徳のいる東海大を延長10回の激闘の末に退け、見事な優勝であった。

そして地獄の話としては、大学4年になりキャプテンとなった石毛だったが、それまで駒澤大学を牽引してきた主力選手の卒業とともに、1978年春季リーでグでは一転最下位となってしまった。さらに日本大学との入替戦では駒澤大学は投手を全て使い果たしてしまい、9回6対6の同点の場面でリリーフがいなくなってしまった。その時に急遽石毛が「俺が投げる」と登板。その石毛の気合いに感化されたチームメイトが延長11回に一挙5点を取り、2回を無失点に抑えた石毛が勝利投手となり、なんとか一部に踏みとどまることができた。石毛はその時「泣きながら投げていた」という伝説があるが、本人は次のように語っている。
 まさか投げているときに、そんなことありませんよ。泣いたのは残留を決めたあとです。そりゃ、やっぱり、最下位は屈辱だったですからねえ。泣いていたら太田さんに「涙なんか流しているんじゃない。いままでの苦労まで流してしまうじゃないか」と言われました(この太田監督の言葉には、苦労をともにした、という実感が込められていた)。初戦のリリーフは、ベンチにいた5人の投手を使い切ってしまったからです。私は2回をノーヒットに抑えたんですよ。勝ち投手? そういうことになるんですかねえ(苦笑)。とにかくホッとしましたよ。
駒澤大学は同年の秋季リーグでも4位と低迷するが、石毛自身は首位打者を獲得した。

大学通算記録は、107試合出場、378打数114安打、打率.302、7本塁打、57打点。ベストナイン6回という輝かしいものであった。また、1976年から2年連続で日米大学野球選手権大会日本代表にも選出された。

プリンスホテルから西武ライオンズへ!

石毛は西部ライオンズ入団前から西武グループだった!

石毛は西部ライオンズ入団前から西武グループだった!

大学時代に華々しい成績を残すも、石毛はプロ入りせずにプリンスホテルに入社し、社会人野球の道にすすんだ。

1979年の都市対抗には東芝府中の補強選手として出場し、初戦第1打席でホームランを放つなどの活躍を見せるが、準々決勝でプリンスホテルのチームメイトの中尾が補強選手として参加していた熊谷組に敗れた。

1980年にはプリンスホテルで悲願の都市対抗初出場を果たすが、2回戦で新日鐵釜石に延長13回の末に敗退した。
社会人野球を2年間経験した年(1980年)のドラフト会議で、西武ライオンズと阪急ブレーブスから1位指名を受けた。これも運命的な感じがするが、同じ西部グループの西武ライオンズが石毛との交渉権を引き当て入団となった。

石毛は大学、社会人の経験があるとはいえ、新人ショートストップとして開幕スタメン出場を果たした。石毛は1年目から目を見張る活躍を見せ、打率ではロッテオリオンズの落合博満と首位打者争いを演じ、ホームランも21本を放った。石毛は新人としては、長嶋茂雄以来となる規定打席に達しての打率3割を達成し、見事に新人王を獲得した。

1982 日本シリーズ 西武ライオンズ 初日本一

石毛入団2年目の1982年。西武ライオンズが初の日本一となった。

ここから西武ライオンズの黄金時代が始まる。当時の西武ライオンズは、川上監督率いるV9時代の巨人の再来とまで言われる常勝チームとなっていった。その時の主要メンバーの一人が石毛であった。
翌年以降、石毛は常勝ライオンズのチームリーダーとしての活躍を見せた。1983年の「盟主決戦」と言われた巨人との日本シリーズ第6戦では、1点負け越していた9回裏1アウト満塁の場面で同点打を放つなどの活躍を見せ、西武ライオンズの二年連続日本シリーズ制覇に大きく貢献した。

珠玉の日本シリーズ■1983西武vs巨人~その2〔第6戦~7戦〕

1983年の巨人と西武の日本シリーズ。シリーズは7戦目までもつれ込んだが、西武ライオンズがこの激闘を制して2年連続の日本一に輝いた。
1986年はパリーグの打撃三冠王の落合博満、さらには高卒新人記録を次々と塗り替えた怪物・清原和博らを抑えて、石毛はパ・リーグMVPを獲得した。その後は膝のケガなどもあり、サードを守ることが多くなった。

1988年の中日ドラゴンズとの日本シリーズでは決着がついた5試合すべてショートストップとして出場。日本一が決まった第5戦では1点リードされた9回裏、リリーフエース郭源治からバックスクリーンへ起死回生の同点ホームランを打ち、シリーズMVPを獲得した。

石毛はこの年、パ・リーグの野手として初めての一億円プレイヤーとなった。

1988年日本シリーズ 西武対中日(第3戦~5戦ダイジェスト)

優勝の決まった第5戦。9回裏の石毛の同点ホームランから逆転劇が生まれ、日本一へと繋がった。
石毛は現役時代は主にトップバッターとして活躍していた。現役時代の後半は、チームメイトの辻発彦の成長や豪快なホームランバッターのデストラーデの入団などもあり、3番や6番の打順に起用されることも増えてきた。

石毛はタイトル獲得こそなかったが、ゴールデングラブ賞、ベストナイン、月間MVPなど、数多くの表彰を受けている。また、通算成績で236本のホームランをを放ちながら、243盗塁、218犠打など、すべての技術に長けており、本当の意味で走攻守三拍子揃った名選手であった。
【石毛宏典】主な表彰

【石毛宏典】主な表彰

新人王 (1981年)
MVP:1回 (1986年)
ベストナイン:8回 (遊撃手=1981年 - 1983年、1985年 - 1986年 三塁手=1987年、1992年 - 1993年)
ゴールデングラブ賞:10回 (遊撃手=1981年 - 1983年、1985年 - 1986年 三塁手=1987年 - 1988年、1991年 - 1993年)
月間MVP:3回 (1981年6月、1986年6月、1986年8月)
日本シリーズMVP:1回 (1988年)
日本シリーズ敢闘賞:1回 (1985年)
日本シリーズ優秀選手賞:3回 (1986年、1987年、1992年)
オールスターゲームMVP:1回 (1987年 第2戦)
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