『雑居時代』が重版を重ねることで職業作家としての道が確立し1982年(昭和57年)に札幌に戻ったが、長距離電話代の請求額にショックを受けて1983年(昭和58年)に上京。これと平行して隔月雑誌『小説コバルト』に『ざ・ちぇんじ!』『シンデレラ迷宮』などを発表。『なんて素敵にジャパネスク』シリーズで一躍集英社コバルト文庫の看板作家としての地位を確立し、少女小説ブームの立役者として活躍した。
この新人作家、彼女たちは後の“コバルト四天王”と呼ばれる。
立教大学文学部ドイツ文学科に在籍しながら作家活動を続け、1981年に『グリーン・レクイエム』で第12回星雲賞日本短編部門を受賞、1982年、『ネプチューン』で第13回星雲賞日本短編部門を受賞した。1999年には『チグリスとユーフラテス』で第20回日本SF大賞を受賞している。
1970年に植えられた種
70年代の終わりに登場した若手作家たちの存在は、『小説ジュニア』という雑誌を変えていくことになる。少女たちの日常的な感覚を表現できる若手作家陣によって、少女向けの読み物は一大転換期を迎える。
1982年8月号にリニューアルされた『Cobalt』。その誌面メンバーは!?
Cobalt創刊号(1982年夏号)広告。フレッシュ5として新井素子さん、氷室冴子さん、久美沙織さん、田中雅美さん、正本ノンさん。『コバルト文庫で辿る少女小説変遷史』の帯文にある「当事者で部外者」という、新人賞出身ではないゆえの新井さんのやや異なる立場のお話しもいろいろ出ました。 pic.twitter.com/QlhTt7HfVb
— 嵯峨景子@コバルト文庫で辿る少女小説変遷 (@k_saga) April 10, 2017
作家は、かつてのジュニア小説家のような「教師」ではなく、読者は「氷室冴子サマ」や「新井素子おねーさま」「久美さま」と親しみを込めて作家に呼びかけている。彼女たちは楽しい小説を手掛ける憧れの作家であると同時に、親しみや共感を感じる「お姉さん」的な存在であった。
若手作家たちの活躍ぶり!
氷室冴子
原田治さんを初めて知ったのは、この表紙イラストで。
— 曽根スウプ (@soup045) February 11, 2017
この後色々な方のイラストが「クララ白書」「アグネス白書」を飾り、コミカライズも実写化()もされたけど、私にとって馴染深いのはやはり原田さんの絵。
もう原田さんも氷室さんもこの世にいらっしゃらないなんて・・・(ノ_:) pic.twitter.com/Ok1Y5087sL
新井素子
以下は控え室で新井素子さんから聞いたお話です。初出が『高1コース』連載だった『星へ行く船』は先に竹宮惠子さんの挿絵が決まっていたそうです。実際雑誌を確認しても毎回「イラストノベル」と記されているので挿絵の比重は確かに高かった様子。 pic.twitter.com/2PP2ta6Ri4
— 嵯峨景子@コバルト文庫で辿る少女小説変遷 (@k_saga) May 5, 2017