三浦知良 15歳でブラジルへ 近所カズはキングカズになった 「ビッグになってやろうみたいな気持ちが自然と湧き出てきた。日本ではそういう格差が少ないからね」
2020年5月3日 更新

三浦知良 15歳でブラジルへ 近所カズはキングカズになった 「ビッグになってやろうみたいな気持ちが自然と湧き出てきた。日本ではそういう格差が少ないからね」

息子が「お前の親父、キングなんていわれてるけど補欠なんだろう?」なんていわれることもあるらしい。そういうとき大事なことは一生懸命頑張ることなんだって思う価値観を身につけて欲しい。

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ある日、ロッカールームのドアを開けると、そこにシャワーを浴びたばかりの裸のペレがいた。
「カモモトを知ってる?」
ペレは、1940年、15歳で入団して以来、1974年までサントスでプレーし、2度のクラブ世界一。
ブラジル代表としてもワールドカップで3度優勝。
合計5度、世界チャンピオンを経験。
1975年からニューヨーク・コスモスに移籍。
1977年に引退。
22年の現役中、1363試合に出場し1283ゴールを決めた「20世紀最高のサッカー選手」「サッカーの神様」
「ペレ。
この短い言葉の響きは幼いころの僕にとって世界で1番すばらしいもの。
夢そのものを指していたようにさえ思える。
誰から聞いたというわけではなく気がついたときには自分の意識の奥深くに彼の名とプレーが刻み込まれていた・・・
そんな感じなんだ。
特に70年メキシコW杯のビデオをみたときの衝撃は忘れられない
ペレのプレーは一言でいうとすごくシンプル。
難しいことはほとんどしていない。
それなのに相手を抜けるしゴールを決められる。
マネできそうでできないんだ」

18歳でサントスとプロ契約

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1986年2月24日、18歳の三浦知良はサントスFCとプロ契約を結んだ。
するとベッドのシーツは真っ白になり、長距離移動もバスから飛行機に変わり、ステーキの厚みも全然違い、トイレの便座でさえ違った。
「成り上がろう、ビッグになってやろうみたいな気持ちが自然と湧き出てきた。
日本ではそういう格差が少ないからね」
サントスは、セルジーニョ・シュラッパ(1982年のワールドカップスペイン大会ブラジル代表)、ゼ.セルジオ(柏レイソル監督)、ロドリフォ・ロドリゲス(ウルグアイ代表ゴールキーパー)など、すごいメンバーが集まっていた。
サントス所属のブラジル人選手の半数以上がブラジル代表経験者だった。
メキシコ遠征のとき、試合に後半から出たとき
「ジャポネイス!」
と後ろ(味方)から怒鳴られた。
「これは一生懸命やらないと・・」
気合を入れて最初のプレーで思い切りタックルにいったら1発退場になった。
試合が終わって恐る恐る部屋に戻ると
「カズ、なに食べに行く?」
と笑顔でいわれた。
しかし試合になるとまた
「サントスの先輩はほんとに怖かった。
味方への厳しさが半端じゃない。
コーナーキックを蹴ろうとする僕の足がビクつくほどプレッシャーをかけてくる。
ちょっとヘマをすれば
『へたくそ日本人! 帰れ!』
試合中、しかも味方のコーナーキックにですよ」
やがてポルトガル語ががうまくなるとみんなでふざけあうようになった。
懸命にフィジカルを鍛え、全体練習の後も独り残ってフリーキックやクロスの練習を行う姿に他の選手も刺激を受けた。
サントスのセンターフォワードはセルジーニョ・シュラッパだった
1982年のワールドカップスペイン大会においてブラジル代表は、、トーニョ・セレーゾ、ファルカン、ソクラテス、ジーコという屈指のミッドフィルダー4人で「黄金のカルテット」または「黄金の4人組」と呼ばれる中盤を形成し、そのサッカーは多くの人を魅了した。
セルジーニョ・シュラッパは、そのチームでもセンターフォワードだった。
高い技術と重戦車のような突破力を併せ持つストライカーだった。
そしてすごく熱くて破天荒で、レッドカード、退場、出場停止、お構いなく暴れた。
自分のマークについたディフェンダーは威嚇し、判定をめぐりラインズマンを暴行、相手ゴールキーパーを踏みつけ、試合後、相手選手を相手チームのロッカールームまで追っていったこともあった。
ある日の試合で、セルジーニョはベンチスタートだった。
ピッチでは若い味方選手が相手チームにかなり削られていた。
セルジーニョは戦闘体勢で何度もベンチを飛び出しそうになった。
後半になってもその若い選手は激しくやられていた。
「俺は38歳でもう引退だから止めないでくれ」
そう監督にいい残し、飛び出した。
2人の相手につかみかかり、引きずり回し、回し蹴りを入れ、3ヶ月出場停止になった。
そしてその復帰戦でゴールを決め、また退場させられた。
また練習はしなかった。
朝のランニングは1人だけ歩いた。
「今日は用事があるから早めに練習を切り上げたい」
と監督に申し出てOKが出ると私服のままグラウンドを2周走ってそのまま帰った。
「最低でもトレーニングウェアに着替えるとかするでしょ。
彼はジーパンのまま走ってたからね」
問題は多かったがみんなに愛され慕われていた。
三浦知良にとって憧れの選手でもあった。
体の使い方などサッカーの技術はもちろん、どんなときでも動じない精神力を学んだ。
決勝戦や大舞台では必ずゴールを決めていた印象があった。
どんな状況、どんな相手でも関係ない。
自分は自分。
俺はセルジーニョ・シュラッパだ。
そんな姿勢が勉強になった。
「すべては自信という裏づけがあるからできるんだよね」

キリンカップ86決勝 パルメイラスvsブレーメン

中野登美雄(日本サッカー協会事務局長)は、毎年、ブラジルのチームを日本に呼ぶためにサンパウロを訪れていた。
そして三浦知良に出会った。
「スピード、瞬発力、判断力、すべてが日本人のレベルとは段違い。
ブラジル人と比べても勝っていた。
カズの雄姿を是非日本のファンにみてもらいたい」
そしてパルメイラスに期限つきで移籍させ日本に呼んだ。
1986年5月11~18日、キリンカップ(日本で4月から6月ごろに開催されているサッカーの国際親善大会)が開催され、ブレーメン(西ドイツ)、アルジェリア代表、パルメイラス(ブラジル)、日本代表の4チームが参加。
三浦知良はパルメイラスの一員として来日し、ゴールこそなかったが、ドリブル突破や精度の高いクロスで味方の得点をアシストした。
4チームの総当たり戦後、上位2チームが決勝戦で当たるシステムで、ブレーメンとパルメイラスが対戦した。
ブレーメンには奥平康彦がいた。
この試合後、帰国が決まっていた奥平康彦はキャプテンを任された。
先制点はパルメイラスだったが、ブレーメンは追いつき延長に持ち込み、オルデネビッツ(後のJリーグ得点王)の2得点などで逆転勝利で優勝した。
19歳の三浦知良は、この決勝戦には出場しなかったが、試合後の夜の食事会で34歳の奥平康彦と話した。
「19歳のカズと奥寺の対決に日本のファンは盛り上がっていたけど僕自身は複雑だった。
というのもカズ自身のパフォーマンスは悪くなかったけど連携が不十分なところがあったから。
カズはこんなもんじゃないと声を大にしていいたかった」
(中野登美雄)
「体つきが子供で印象に残らなかったが、
『日本に帰ろうと思っています』
というから
『残ったほうがいい。
もう少し修行しなさい』
と助言した。
そのほうが成長できると思ったからね」
(奥平康彦)
奥平康彦(横浜FC会長)は、1977年、25歳のとき古川電工サッカー部からドイツのブンデスリーガのケルンに移籍し日本初のプロサッカー選手となった。
日本代表として西ドイツで合宿を行っていたとき、代表20人は5人ずつ4グループに分かれ、ブンデスリーガの練習に参加した。
奥平康彦はケルンの練習に参加し、そのプレーがバイスバイラー監督に気に入られ、帰国前に直接オファーを受けた。
事情を聞いた古川電工は快く移籍を認めた。
古川電工サッカー部は名門だったが、全員が社員選手だった。
それがいきなり世界最高峰のリーグでプロ契約することになり、収入も激増した。
基本給は、手取り10万円台だったものがが10倍になり、試合に勝つと2000マルク(約24万円)の勝利給も出た。
その後、ヘルタ・ベルリンやブレーメンでもプレーし、正確なキックは「東洋のコンピューター」といわれた。
そしてキンリンカップを最後に9年ぶりにドイツから日本の戻った。
日本サッカー協会は、「スペシャルライセンスプレーヤー制度」を導入し、奥平康彦は古川電工と日本初のプロ契約を結んだ。
「サラリーマンサッカーの時代は終わった」
しかし帰国後、感じたのは歯がゆさだった。
まずドイツと日本のレベルの差は大きさを痛感した。
そしてアドバイスしても
「奥寺さんはプロだからいいよね」
という声が返ってきたときは唖然とした。
向上心がないわけではないが、プロと社員選手では懸かっているものが違った。
1987年、日本代表としてソウルオリンピックのアジア最終予選に進出。
最終的に中国との決戦となり、アウェー戦を1対0で勝った後、ホームを0対2で負け、最後の最後でオリンピック出場を逃した。
日本の1968年のメキシコオリンピックの銅メダル以降、5大会連続予選敗退に、古川電工で奥平康彦の上司だった川渕三郎(Jリーグ初代チェアマン)は危機感を抱いた。
「早くプロリーグをつくらないとアジアからも遅れる」
1988年、奥平康彦は引退。
Jリーグがスタートしたのは5年後だった。

設楽りさ子にひと目ぼれ

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またこの帰国時、JALのキャンペーンガールとして週刊誌のグラビアを飾っていた設楽りさ子をみてひと目ぼれ。
「『こんな女性がいるのか』と僕の胸が震えたのは19歳。
伴侶のあの美しさを超える女性は僕の中で見当たりません」
すぐに知り合いの記者に頼んだ。
「この子の連絡先、調べてきてよ」
記者は所属芸能事務所の電話番号しかわからなかったが、数日後、三浦知良を訪ねた。
「設楽さんの連絡先ですけど・・・」
「もう大丈夫。
さっき一緒にお茶していたから」
三浦知良はファッション雑誌に掲載されている情報から設楽りさ子が通っている大学をつかみ、同じ大学の同級生の女性にコンタクトし設楽りさ子の電話番号を手に入れた。
「会ってくれなければブラジルに帰れない」
ブラジルからも毎週手紙を書き、1990年に日本に本格的に帰国後も交際を続け、1993年に結婚した。
プロポーズの言葉は
「どんな事があっても僕についてきてくれるか?」
だった。
2人の息子ができて、三浦知良は家でも家族を笑わせた。
幼稚園に通っていた長男に
「8+6」
を聞かれ、間違え、妻に長男一緒に怒られた。

ジャイアント・キリング ジーコと対戦

 (2188011)

ブラジルに帰国した三浦知良はタッチサンパウロというサンパウロ州の20歳以下の大会で、負けていた試合で同点に追いつくPKを決め、初めて「カズコール」を受けた。
翌日、新聞に見出しが躍った。
『Kazu e um heroi japones”(カズは日本のヒーローだ)』
しかしサントスFCで活躍できたのは8ヵ月後だけで、SEマツバラへ移籍した。
そしてSEマツバラではレギュラーとして南部3州リーグ優勝に貢献した。
バスで22時間かけて移動して土のグラウンドで試合し、また24時間かけて帰ったり、2部に落ちかかった試合で後半40分くらいまで勝っていたらスタジアムのライトを消してゲームを終わらせたり、苛酷な環境や生存競争の激しさ、いい悪いは別にして絶対に負けないという勝負根性などプロのサッカー選手であるために何が必要なのかを思い知らされた。
1987年10月、クルーベ・ジ・レガタス・ブラジル(CRB)に移籍。
このクラブでもレギュラーとして活躍し、日本人で初めてブラジル全国選手権への出場を果たした。
1988年、キンゼ・デ・ジャウーへ再移籍。
格上のSCコリンチャンス・パウリスタ戦で日本人として、リーグ戦初得点を挙げ、3対2で勝った。
このジャイアント・キリングによってブラジル全土に「三浦知良」という名が知れ渡り、ブラジルのサッカー専門誌:プラカーの年間ポジション別ランキングで左ウイングの第3位となり、ジャウー市からは名誉市民賞が贈られた。
1989年2月、コリチーバFCに移籍し、パラナ州選手権優勝に貢献した。
またフラメンゴ戦では、ジーコと初対決した。
「僕の人生の中には宝物といえる試合がある。
フラメンゴのジーコと対戦したことは間違いなくその1つだといえる。
これは僕の自慢であり誇りだと言い換えてもよい」
試合はコリチーバのホームスタジアムで行われ、45000人のファンで超満員にだった。
試合前の握手のとき、21歳の三浦知良にジーコは
「成功を祈っている」
と声をかけた。
「初めてカズのことを耳にしたのは80年代後半だった。
プロになりたくてブラジルに来た日本人の少年が1部リーグのキンゼ・デ・ジャウーと契約したというのはちょっとしたニュースだった」
(ジーコ)
ジーコは、セルジーニョ・シュラッパ同様、1982年のワールドカップスペイン大会にブラジル代表として出場し、黄金の4人の1人として中盤を形成した。
シュート、ドリブル、パス、フリーキック、すべてが華麗で強力、何よりクレバーで、その存在は4人の中でも別格だった。
24歳のベベト、21歳のジーニョ、19歳のレオナルドという若いタレントと38歳のジーコを配したフラメンゴは前年、ブラジル全国選手権で優勝していた。
コルチーバは前半は0対2でリードされたが、後半に2対2に追いつき、最後はPK戦で勝った。

23歳でサントスのレギュラー

 (2188032)

「Kazu Miura」の名前が雑誌や新聞のベストイレブンに掲載されるようになった。
「こんな雑誌に載るなんて夢だよな」
数年前にはそう思っていたことが現実になった。
1989年、テレビ朝日「ビートたけしのスポーツ大将」に出演。
番組内の企画のサッカー対戦で、助っ人としてゴールを決めた。
このときラッシャー板前のマンションに同居させてもらっていた。
「彼が19~20才で、まだ有名じゃなかったときです。
カズさんと一つ屋根の下でたぬきそばとカツ丼を分け合って食べたりしていましたね。 
同居のよさは気遣いが染みつくこと。
率先してお酒をつくるようになるし、冷房の温度は妥協するようになるし、聞かれたくない電話は聞かないふりができるようになるし、人との距離が上手になりますよね。
それは社会でも生かせるスキルです」
(ラッシャー板前)
1990年2月、サントスFCへ4年ぶりに再移籍。
4月29日、パウリスタ選手権においてアウェーのパルメイラス戦はアウェーでサントスは苦戦していた。
ペペ監督になんとか状況を打開してくれとピッチに送り出された三浦知良は、1得点1アシスト、チームは2対1で勝った。
ブラジルの新聞はスポーツ紙、一般紙共に三浦知良の活躍を伝え、そのゴールシーンはプラカーの表紙となった。
「カズの優れた点は、ヴェロシダージ(スピード)、フォルサ(パワー)、デテルミナソン(決定力)だ」
というペペ監督は、現役時代1951年にサントスに入団して以来1969年に引退するまでサントス一筋だった。
現役時代、三浦知良同様、左ウィングで
「ペレは1000ゴール決めたが、俺は500ゴール決めた」
と自慢し
「どうやったらセンタリングうまくできますか?」
と質問されると
「ペペのようにやれ」
と答えた。
サントスはビッグクラブで、サポーターの数が多く、メディアの注目度も高く、試合で選手には大きなプレッシャーがかかったが
「お前がよいプレーをしたらお前の手柄。
お前がよくないプレーをしたら俺の責任。
お前の責任じゃない。
心配するな」
と送り出した。
三浦知良は18歳でサントスとプロ契約し、23歳でレギュラーとなった。
現在までブラジルで活躍し有名になり成功した唯一の日本人サッカー選手であり、その永住権を更新するため最低でも2年に1度はブラジルを訪れている。
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ブラジル留学にいっていた北澤豪は、たまたま足を運んだスタジアムでブラジル人を翻弄する三浦知良をみて、そのプレーに衝撃を受けた。
そして同じ日本人というだけで、相手チームのサポーターから小便をかけられた。
数日後、日本人街のサウナで偶然、三浦知良と会い
「もうすぐ日本に帰るよ」
といわれた。
霜田正浩(Jリーガー、コーチ、日本サッカー協会技術委員)も、高校を卒業後、ブラジルに留学した。
海岸で三浦知良と日本人留学生数人でサッカーをしていたときブラジル人に
「日本人にサッカーなんてできるのか?」
とからかわれトラブルになった。
大きな体をしたブラジル人だったが、三浦和良は1人
「ふざけるなよ」
と立ち向かっていった。
「しょっちゅうそんなことがあったから。
殴り合いとまでいかなくてもいわれたらいい返す。
いつもブラジル人には挑戦的だった。
当時、サッカーの世界では日本人は1番下だったから、扱い、みる目、すべてが下。
よくバカにされることもあった」
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ある休日、都並敏史は、家族と読売クラブのサッカー場に隣接する遊園地を訪れ、観覧車に乗って楽しんでいた。
するとグラウンドで同じくオフで日本で帰ってきて自主トレをしている三浦知良を見つけ、その激しさに驚いた。
自主トレを終えた頃、集まり出した選手たちに
「ボール回しやりませんか?」
と誘われ
「今ケガできないからやめとく」
とキッパリ断るのをみて再び驚いた。
「本物のプロはここまで注意するのかとガーンと頭から熱湯かけられたような気がした」

日本サッカーのショボさ

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