三浦知良 15歳でブラジルへ 近所カズはキングカズになった 「ビッグになってやろうみたいな気持ちが自然と湧き出てきた。日本ではそういう格差が少ないからね」
2020年5月3日 更新

三浦知良 15歳でブラジルへ 近所カズはキングカズになった 「ビッグになってやろうみたいな気持ちが自然と湧き出てきた。日本ではそういう格差が少ないからね」

息子が「お前の親父、キングなんていわれてるけど補欠なんだろう?」なんていわれることもあるらしい。そういうとき大事なことは一生懸命頑張ることなんだって思う価値観を身につけて欲しい。

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1993年、Jリーグが発足した。
参加したクラブは
・鹿島アントラーズ
・東日本JR古河サッカークラブ(現:ジェフユナイテッド千葉)
・三菱浦和フットボールクラブ(現:浦和レッズ)
・読売日本サッカークラブ(現:東京ヴェルディ)
・日産F.C.横浜マリノス(1999年、全日空佐藤工業サッカークラブと統合。現:横浜F・マリノス)
・全日空佐藤工業サッカークラブ(横浜フリューゲルス)
・清水FCエスパルス(現:清水エスパルス)
・名古屋グランパスエイト(現:名古屋グランパス)
・パナソニックガンバ大阪(現:ガンバ大阪)
・サンフレッチェ広島F.C
の10クラブ(オリジナル10)だった。
本来、開幕は3月だが、この年は4~5月までワールドカップのアジア一次予選が開催され、Jリーグの成功に日本代表の成功は不可欠と考えたJリーグ事務局は5月15日に開幕を遅らせた。
またラモス・ルイ、都並敏史、武田修宏、北澤豪、井原正巳など国内の有力選手に加え、ジーコ(鹿島)、リトバルスキー(市原)、カレカ(柏)、ディアス(横浜M)など世界的な選手が海を渡ってきて参戦した。
そのサッカーは豪快で華麗で芸術的で観客を見惚れさせた。
「彼らの華麗なフェイントやパスを真似する人はたくさんいると思う。
でも僕が本当に「すごい」と思うのは、むしろ勝利に徹底的にこだわって戦い抜く姿勢のほうなんだ。
ドリブルしててボールを奪われたときものすごい形相で後ろから追いかけてってボールを奪い返そうとする。
ラモスさんなんかもそうだったけど、ボールを奪い返すためにはファウルも辞さないという覚悟を持っていた。
大切な試合を勝ち抜いていくために必要なのは実は華麗なテクニックではなくてそういう姿勢なんだ。
テクニックを真似るのはもちろん大切だけど今の若い選手たちには彼らのファイティングスピリッツだとか泥臭さのほうをまず学んでほしいね」

カズダンス

5月26日、鹿島アントラーズ戦でJリーグ初ゴール。
7月17日、神戸ユニバー記念競技場で行われたJリーグオールスターサッカーでは、2得点でJ-EASTの勝利に貢献し、大会MVPに選出された。
7月31日、自身の結婚式の前日のガンバ大阪戦からは6試合連続得点。
12月8日、浦和レッズ戦ではJリーグでの初ハットトリックを決めた。
三浦知良は、ゴールを決めるとカズダンスというゴールパフォーマンスが行った。
両足で細かいステップを踏みながら両手をぐるぐる回し、最後に左手で股間を押さえて右手で前方または天を指さす。
またガッツポーズや投げキッスなど、フィニッシュはバリエーションがある。
ブラジルのFWカレッカが得点後、コーナーフラッグ付近でサンバを踊ったのを真似たのが始まりだったが、カズダンスはゴール後のパフォーマンスを日本に定着させ、以後各選手、各チームがパフォーマンスを行うようになった。
三浦知良がゴールを決めると選手もサポーターもみんなこぞってカズダンスした。
城彰二も一時期カズダンスをしていたが、そのことを聞いた三浦知良に呼び出され説教され、以降踊れなくなった。
こうしてJリーグ開幕シーズンは合計20得点を挙げ、第1回のMVP、前年に続いてフットボーラー・オブ・ザ・イヤー(日本年間最優秀選手賞)、そしてアジア年間最優秀選手賞も受賞した。
Jリーグが発足、開幕した1993年はサッカーが日本を席巻した。
新語・流行語大賞の年間大賞には「Jリーグ」、新語部門金賞に「サポーター」が選ばれた。。
スポーツをみるだけでなくチームを支える人を指す「サポーター」は、それまで日本に存在していなかった新しいスポーツの楽しみ方だった。
空前絶後のJリーグブームだった。

神様( ジーコ)が唾を吐いた

 (2188050)

ラモス、ペレイラ、ビスマルク、三浦知良などスターぞろいのヴェルディは、チャンピオンシップでも鹿島アントラーズ戦を破って年間優勝に輝いた。
第1戦でヴェルディは2対0で勝ったが三浦知良はPKを外していた。
そして第2戦は、0対1で負けていたが、残り10分を切ったところでPKが与えられた。
すると三浦知良が蹴ろうとするボールにアントラーズのジーコは唾を吐いた。
そして退場させられた。
2人は共に腕にキャプテンマークを巻いていた。
1989年に現役選手を引退しブラジルでスポーツ担当大臣を務めていたジーコは、Jリーグが開幕する2年前の1991年に、日本リーグの2部リーグに所属していた住友金属に入団し現役に復帰した。
初めて住友金属の練習グラウンドが土なのをみて
「このピッチは選手がサッカーをやる環境か」
とつぶやいた。
その後、練習後、選手が風邪を引かないように練習場の近くのシャワールームやフィジカルトレーニング設備、ケガをしてもすぐに治療ができるメディカル面の整備など100%サッカーに集中できるようにフロントに要求していった。
選手には、まずボールを止める、蹴る、止めるを繰り返し、基本の大切さを説いた。
練習後、シューズが散らばったロッカールームにシューズをみると
「明日もこんな状態だったら全部捨てる」
といって自分のスパイクの手入れを始めた。
お菓子を食べている選手をみつけると
「プロの体づくりにお菓子は必要ない」
と怒鳴った。
そして5月16日のJリーグ開幕戦、対名古屋グランパス戦では、前半25分に強烈なミドルシュートで先制点を決めると、5分後の前半30分にも芸術的なフリーキックで2点目。
後半18分にもアルシンドのクロスをボレーで合わせJリーグ初のハットトリックを達成した。
そして試合は5対0で快勝した。
鹿島アントラーズはその勢いのまま第1ステージで優勝した。
ジーコがJリーグでプレーしたのは1993年の開幕から1994年の6月までで、23試合に出場し14得点を奪った。
その間、普段の練習から紅白戦、サブ組の試合、すべて全力を尽くして勝つために戦う。
そんな勝利への執着心、勝利へのメンタリティを植えつけた。
現在、鹿島アントラーズは
「常勝軍団」
と呼ばれ、選手も
「鹿島でプレーするということはタイトルを獲ること」
と言い切る。
チームには未だジーコ魂が根づいる。
そんなサッカーの神様らしからぬ行為はある意味、大事件だった。
「その試合はJリーグのチャンピオンを決める最初のファイナルだったが、私は何かがおかしいと感じていた。
2戦ともヴェルディのホームでプレーするということやロッカールームの問題などすべてにおいてヴェルディが保護されていたからだ。
さらにいえばPKを与えたレフリーはヴェルディで働いたことのある人間だった。
とはいえ私の行為は反スポーツマン的だったと後悔している。
私がレフリーに抗議して退場となったのは初めてのことだったし規律上の問題でピッチを去ったこともそれまで1度もなかった。」
(ジーコ)
当時の日本ではまだホーム&アウェイも定着しておらず、第1戦、第2戦とも国立競技場で行われた。
サッカー先進国から来たジーコが異議を唱えるのは当然だった。
「正直、ラッキーだと思ったね。
ジーコは敵にするととても怖いプレーヤー。
40歳を超えて運動量は少なくなっていたけどイザというとき決める力があったから。
そんな中でジーコが退場となりピッチを去ったのだからヴェルディの勝利にグッと傾いたなと。
僕がこのPKを外しても勝敗に影響はない。
だから楽な気持ちで蹴れた」
(三浦知良)

ワールドカップアメリカ大会アジア予選

 (2188059)

1993年、翌年に行われるワールドカップアメリカ大会に向け、アジア予選が開始された。
1次予選はA~F組にわかれ6ヵ国が通過。
最終予選はその6ヵ国が総当たり戦を行い、上位2ヵ国がワールドカップの出場権を得る。
日本は1次予選F組を7勝1分けで通過。
カタールの首都:ドーハに移動し最終予選に挑んだ。
通常は各国代表は別々のホテルに分けられるが、湾岸戦争
(1990年8月2日、イラク軍がクウェート侵攻。
1991年1月17日、多国籍軍がイラクを空爆。
3月3日、暫定停戦協定。
2006年12月30日、サダム・フセインの絞首刑執行)
の影響で日本、韓国、北朝鮮、イラン、イラク、サウジアラビアのそれぞれの代表が1つのホテルの同フロアに宿泊し、厳しく警備された。
日本はスタッフが9階、選手が8階。
別棟7階にキッチンと食堂、ミーティングルームを確保した。
オフト監督は食事を大事にしたが、UAEで行われた1次予選のときはホテルの厨房の使用許可が下りず、ドーハでは自分たちのキッチンを用意した。
日本から同行したシェフは、朝、昼、晩、毎食バイキング形式で食事を用意した。
納豆などは無事空港を通ったが、米など持ち込めなかった食材は現地で調達された。
日本は

第1戦、サウジアラビア 0対0
第2戦、イラン 1対2
第3戦、北朝鮮 3対0
第4戦、韓国 1対0

と第5戦を残し1位。
2位 サウジアラビア
3位 韓国
4位 イラク
5位 イラン
6位 北朝鮮
と続いた。

キング誕生

 (2188063)

初戦のサウジアラビアで、ボランチのアミンという中心選手がケガをしているという噂があった。
ホテルだったので試合前日、フロントに
「アミンは泊まっているか」
と聞くと、
「来てない」
といわれた。
しかし当日のスターティングメンバーだった。
情報戦において日本は正々堂々としていた。
非公開練習もまったくせずオープンだった。
第2戦のイラン戦で1対2で負けた時点では6位だった。
試合後、オフト監督は選手にメッセージを送った。
「3win(残り3試合全勝)」
そして第3戦の北朝鮮戦では、三浦知良の2ゴール1アシストで日本は3対0で勝った。
翌日、開催地:カタールの英字紙:ガルフ・タイムズは見出しで
「King Kazu」
と書いた。
「94年アメリカW杯のアジア地区最終予選には6ヵ国が参加していたが、湾岸戦争などで政治が暗い影を落とすことが懸念されていた。
大会の雰囲気を明るく華やいだものにするためにもスターを必要としていた。
そこに登場したのが「カズヨシ・ミウラ」という名の選手だった。
特に素晴らしかったのは北朝鮮戦だ。
あと1敗でもすれば本大会への夢が事実上絶たれる状況だったにも関わらず、カズは日本代表に再び希望の灯を灯した。
数千人の日本人サポーターがカズに熱狂する光景は今でもハッキリと目に焼き付いている
試合が終わるや否や僕はカメラマンと共にアルハリスタジアムからガルフタイムズに車で直行。
約30分でオフィスにつくと一気に原稿を書き上げ、最後に『King Kazu』とい大見出しをつけた。
このタイトルはまさにピッタリだったと思う。
だが印刷所に原稿を送る前に最後の作業が残っていた。
当時の中東諸国には検閲制度があった。
僕はエジプト人検閲官による原稿チェックが終わるのをジリジリとした気持ちで待っていた」
(デイヴィッド・ジェイムズ記者)
以後、「キング」は日本のメディアでも使うようになった。
移動バスで三浦知良が座る左最後尾の座席は「キングシート」と呼ばれた。
「僕の中ではキングといえばペレ。
偉大過ぎる大先輩の愛称をいただくのは光栄だけど・・・・
さすがに言い過ぎじゃない?」

40年間の壁を打ち破った韓国戦

 (2188064)

第4戦の韓国戦でも三浦知良は決勝ゴールを決め、日本は1対0で勝った。
日本はこれまで40年間、韓国に勝てなかった。
それをワールドカップ予選で初めて破るという快挙だった。
宿敵韓国に勝利したことで日本代表にはワールドカップ行きが決まったような雰囲気が生まれた。
本当はあと1つ勝たなければならなかったが・・・
「まだ終わっていない」
ラモスは選手たちにしつこくいった。
実際、第5戦の結果次第で北朝鮮以外の5ヵ国に本大会出場のチャンスが残されていた。
第4戦までは全試合がハリーファ国際スタジアムで行われてきたが、第5戦は、同日同時刻にキックオフとなり3会場に分けられた。
その組み合わせは
日本 - イラク
サウジアラビア - イラン
韓国 - 北朝鮮
だった。
日本は勝てば、他の試合の結果にかかわらずワールドカップ本大会出場が決定。
引き分けても
・サウジアラビア - イラン戦が引き分け
・イラン勝利、
・韓国 - 北朝鮮戦が引き分け、
・北朝鮮勝利
・韓国が1点差以下で勝利
の場合は本大会出場が決定するという、かなり有利な立場だった。
3位の韓国は自力出場の可能性が消滅しており、最終戦で北朝鮮に勝っても日本とサウジアラビアが勝てば本大会出場ができない状況だった。

ドーハの悲劇 最終予選最終戦ロスタイムで同点にされ本大会出場ならず

 (2188065)

1993年10月28日、日本 - イラク戦はアル・アリ競技場で開催された。
両国の対戦は9年半ぶりで、過去の対戦成績は日本の0勝3敗1分け。
この試合から出場停止中だった主力2名が復帰するはずだったが、試合当日朝にペナルティーの延長が決まった。
イラクは最終予選を通して不利な判定を受けていた。
イラクとワールドカップ開催国:アメリカは湾岸戦争で敵国。
イラクがアメリカ大会に出場することを阻止する配慮があったのではないかとまことしやかに囁かれていた。
にもかかわらずここまで最終予選を1勝2分け1敗。
イランに勝ち、韓国、サウジアラビアと引き分け、北朝鮮戦も2対0でリードしていたが途中退場者を出て負けた。
しかも得点数は6ヵ国中1位。
間違いなく強かった。
日本の前線には三浦知良、中山雅史、長谷川健太が立った。
イラクは出場停止処分が重なり主力数名を欠いていた。
前半5分、中山雅史のポストプレーから長谷川健太がシュート。
クロスバーに弾かれたボールを三浦知良がヘディングで押し込んだ。
勝利しか本大会出場の望みがないイラクは、ボールを奪うとカウンターを仕掛ける展開。
前半は1対0で終了。
このとき他の2会場は
『サウジアラビア 2対1 イラン』
『韓国 0対0 北朝鮮』
このまま勝敗が進めば日本とサウジアラビアが勝ち抜けとなる。
ハーフタイムではオフト監督が
「Shut Up(黙れ)」
と何度も怒鳴らなければならないほどロッカールームに引き上げてきた選手たちは興奮状態で、各々勝手に話し合っていた。
選手たちの会話がどこで起こっているのかわからない異様な状況が続き、オフト監督が
「U.S.A. 45min(アメリカまであと45分)」
とホワイトボードに書いて説明しようとしたら後半のブザーが鳴ってしまった。
後半、日本は運動量が落ち、イラクがボール支配率を高め攻勢を強めた。
後半15分、アーメド・ラディがセンタリングをゴールへ流しこみ1対1の同点。
他会場ではサウジアラビアと韓国が得点を重ねていて、日本は勝たなければ予選敗退となる。
後半24分、ラモス瑠偉のスルーパスをオフサイドラインぎりぎりで抜け出した中山雅史が受け、ゴール右角にショートを決め、2対1。
ゴールシーンをベンチ正面から見ていた都並敏史は
「こりゃオフサイドだ。
これ、くれるか」
とつぶやいた。
ラモスは主審の笛が日本寄りな雰囲気を感じ、微妙な判定ならなら流すと予想していた。
この勝ち越しゴールも中山雅史がオフサイトポジションに出た瞬間を狙ってスルーパスを出した。
 (2188066)

その後、両チームとも疲労が激しく膠着状態が続き日本勝利かと思われた。
後半44分50秒、武田修宏がまだ味方が詰め切れていないイラクゴール前へセンタリング。
このルーズボールをラモスが回収し、最終ライン裏へ浮き球のスルーパスを通そうとした。
イラクはこのパスをカットし、自陣からカウンターアタックを仕掛け、最後はコーナーキックのチャンスを得た。
試合時間は後半45分を超えてロスタイムに突入した。
ロスタイムに入り、いつ主審が試合が終わらすかわからない状況ではコーナーキックはゴール前へ直接センタリングを蹴るのが常識。
しかしキッカーのライト・フセインは、意表を突きショートコーナー。
三浦知がプレスに走りスライディングをかけた。
しかしフセイン・カディムは振り切らりセンタリング。
オムラム・サルマンがヘディングでシュート。
ボールはゴールキーパー:松永成立の頭上を放物線を描いてゴールに吸い込まれた。
2対2。
イラクはすぐにセンターサークルにボールを戻し、最後まで勝利を目指す姿勢をみせた。
日本はキックオフから前線へロングパス。
しかしをボールがタッチラインを割った時点で笛が鳴り試合は終了した。
日本代表選手の多くがその場にヘタリ込み動けなかった。
両手で顔を覆って号泣していたキャプテン:柱谷哲二をハンス・オフト監督と清雲栄純コーチが起こし支えながら歩いた。
他の選手も控え選手やスタッフに声をかけられ夢遊病者のようにヨロヨロと立ち上がり歩いた。
最終的に日本は3位に転落。
1位のサウジアラビアと2位の韓国が本大会出場権を獲得した。
この試合はテレビの生放送されていたが、
「決まった!」
と現地で実況中継していたアナウンサーが叫んだ後、同じく現地にいた解説者も、東京のスタジオでゲスト出演していた釜本邦茂(ガンバ大阪監督)、森孝慈((浦和レッズ監督)、柱谷幸一(浦和レッズ、日本代表キャプテン:柱谷哲二の兄)らも誰も一言も発せず、まるで放送事故のようだった。
「仕方ないですね」
沈黙が30秒近く続いた後、なんとかアナウンサーが続けた。
試合終了後、画面がスタジオに戻っても釜本邦茂も森孝慈も柱谷幸一も何もいうことができない。
柱谷幸一は放送中にも関わらず頭を抱え込み泣いていた。
深夜にもかかわらず番組の視聴率は48.1%を記録。
ワールドカップ出場を直前で逃した日本代表には、帰国後、厳しい批判にさらされることが予想された。
日本の多くのファンは、日本代表を好意的に受け止めていて、成田国際空港に到着した日本代表は多数のファンに温かく迎えられた。
しかし数日後、日本サッカー協会強化委員会は
「修羅場での経験不足」
を理由に翌年5月まで契約が残っていたオフト監督の解任を決定した。
三浦知良はアジア1次予選9ゴール、アジア最終予選4ゴールと素晴らしい活躍だった。
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