三浦知良 15歳でブラジルへ 近所カズはキングカズになった 「ビッグになってやろうみたいな気持ちが自然と湧き出てきた。日本ではそういう格差が少ないからね」
2020年5月3日 更新

三浦知良 15歳でブラジルへ 近所カズはキングカズになった 「ビッグになってやろうみたいな気持ちが自然と湧き出てきた。日本ではそういう格差が少ないからね」

息子が「お前の親父、キングなんていわれてるけど補欠なんだろう?」なんていわれることもあるらしい。そういうとき大事なことは一生懸命頑張ることなんだって思う価値観を身につけて欲しい。

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イタリア セリエA アジア人初

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1993年12月、ACミラン主催のチャリティーマッチに先発出場しウーゴ・サンチェスの得点をアシスト。
1994年、イタリアのセリエAのジェノアCFCに1年の期限付きで移籍。
アジア人初のセリエAプレーヤーとなった。
セリアAは世界最高峰のサッカーリーグだった。
欧州、南米を問わず世界中のトップ選手がイタリアに集結していた。
外国人枠が3枠しかないのに、トマス・スクラビー(チェコ)、ジョン・ファントシップ(オランダ)、三浦知良(日本)とわざわざ日本人を獲得したジェノバに疑問の声が起こった。
「(ジェノアのユニフォームの胸部分の広告権をケンウッドが獲得したこともあり)スポンサーを得るために獲得したといわれているがどう思う?」
加入会見で辛辣な質問も浴びせられるなど、現地でこの移籍は商業的なものとみる傾向が強く、またアジア人に対する偏見も相当強かった。
当時のイタリアは、「日本人なんかにサッカーができるわけがない」というのが共通認識で、まるで異星人のような扱いを受けた。
フランコ・スコーリオ監督も外国人、特にアジア人である三浦知良には厳しかった。
「例えばJリーグにいきなりパキスタンとかベトナムの選手が来る感じ。
いやもっと開きがあるかもしれない。
なんで日本人がわざわざイタリアにサッカーしに来るの?って思われてたんだ」
厳しい状況の中だったが、誰よりも練習場に現れ誰よりも遅く去った。
自分の実力を疑うイタリア人に囲まれ、まるで1人ぼっちのようなストレスまみれの毎日を過ごした。

デビュー戦で負傷退場

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9月4日、ACミランとのセリエA開幕戦でセリエAデビューを果たした。
試合前、前年のリーグチャンピオンであるACミランより三浦知良の方がカメラマンが多かった。
しかし前半途中、ボールを競り合ってフランコ・バジーレと激突し、グラウンドに倒れ、担架で運ばれた。
その後、なんとか戻ったが後半は出場することが出来なかった。
「今思うと少し力が入りすぎていたのかもしれない。
センターサークル近くでバレージとハイボールを競り合って顔面を骨折してしまった。
普通の精神状態ならゴールチャンスでもないのにあんな競り方はしなかったかもしれない。
ぶつかった瞬間はハンマーで殴られたような感じで、そのまま地面に落ちた。
治療を受けた後、なんとか復帰したが後半は試合に出場することはできなかった」
結局、試合は0対1でジェノアが負け、三浦知良は、鼻骨骨折と眼窩系神経損傷によって1ヶ月の戦線離脱を余儀なくされた。
「1度治療のためにピッチの外に出てすぐに戻ったんだけど、照明が全部つながってみえるし吐き気がして走っているのが精一杯だった。
それでも前半終了までは何としてもピッチに立っていたかった。
これだけ騒がれたデビュー戦で、日本のファンからもすごい期待と応援をもらっていながら、前半半ばで退場なんて恥ずかしかったしね。
冷静に考えれば交代したほうがよかったのかもしれないけど「出たい」という気持ちを強く持って、残り15分を走り抜いたのは大事なことだったと今でも思えるんだ」
激突したフランコ・バジーレは1977~97年までACミラン、1982~94年までイタリア代表で活躍した名ディフェンダーだった。
日本代表のドーハの悲劇と同様、イタリア代表はブラジル代表にPKで負けてワールドカップアメリカ大会出場はできなかった。
1次予選の早々に半月板を痛めたフランコ・バジーレは、代表キャプテンの誇りと責任感から手術を強行し、なんとかブラジル戦に間に合わせロマーリオやベベトを完全に抑え込んだ。
ハーフタイムで三浦知良の容態を聞き、手術後には電報を送った。

復帰戦でセリアA初、そして唯一の得点

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1994年12月4日、9月4日の開幕戦で負傷退場となって以来、3ヶ月ぶりに三浦知良は復帰した。
それはサンプドリアとのダービー戦だった。
ビッグクラブ同士の対戦を、ブラジルでは「クラシコ」、イタリアでは「ダービー」といい街はお祭り騒ぎとなり、一部のサポーターは殺気立つ。
「我々とサンプの戦いが始まる」
こうして選手もサポーターもリーグ戦の1試合でありながらリーグの順位に関係なく絶対に勝たなくてはならない試合となる。
スタジアムは真ん中からジェノアの赤とサンプの青に分かれた
2週間前に監督がフランコ・スコーリオからジュゼッペ・マルキオーロに代わり、新監督は2戦目で三浦知良を復帰させた。
そしてチームのトップフォワードであるトマス・スクラビーの後ろに配置した。
「スコーリオの考えは多少違っていたようだが、私にとってフィールドに立つ資格を持つ選手は仲間のために走ることを厭わない者に限る。
年間20ゴールを決める能力を持つ選手は往々にして他者のために自らを犠牲にできない。
だけど真の一流選手ってものはそうじゃない。
エゴを封印し、年間10ゴールに留まろうとも、その分をチームのために走ろうとするものだ。
果敢に走ることを知る者は一方で同じように走る者への労りの心があるから必然的にパスの質も他との違いがあるものだ。
そういう心のあるパスを送れるものこそが私のいう「本物のプロ」ということになる。
カズはその点、本物だった」
(ジュゼッペ・マルキオーロ)
試合前半13分、アントニオ・マニコーネが浮かせたボールを長身のトマス・スクラビーがヘディングで落とし、走りこんだ三浦知良がシュートを決めた。
トマス・スクラビーは1990年のワールドカップではハットトリックを含む5ゴール、ジェノアでも59ゴールのクラブ最多記録を持つ選手だった。
ガッチリした大型のフォワードで、周りを目を気にせず、酒もタバコもガンガンする破天荒な男だった。
「お前(三浦知良)はあの難しい状況の中で本当によくやったよ。
開幕のACミラン戦でフランコ・バジーレと激突して頬骨を折ったにもかかわらずフィールドを去ろうとしなかった。
それから監督のアジア人に対する偏見を前に、常に変わらない姿勢でトレーニングを続けていた。
だから『俺はこいつのために何をしてあげられるんだ?』って思ったんだ。
そして迎えたのがサンプドリアとのダービーだった。
ケガから回復して来たお前と2人で前線に立ち、チャンスが来たのは前半の開始すぐだったと思う。
右からのクロスを受けた俺はボールを頭で捉えながら心の中で叫んでいた。
後ろから詰めて来ていたお前の眼をみながらね。
『いけ、カズ!決めてみせろ』って
ボールがネットを揺らした瞬間、1人の日本人が欧州に渡りスター達の前で確かな存在を示した瞬間を、俺は忘れないだろう」
これが三浦知良のセリアA初得点、そして唯一の得点となった。
(トマス・スクラビー)
森下源基(ヴィッセル川崎社長)は三浦知良をセリアAから呼び戻した。
読売新聞社会部記者を経て読売クラブへ入り、1994年からヴィッセル川崎社長となった森下源基は、ブラジルにいた三浦知良を
「君の力で国立競技場を満員にしてくれ。
君ならそれができる」
と口説き、金銭的にも破格の条件を提示し日本に移籍させた経歴を持つ。
今回ももう1年、セリエAにチャレンジしたいという三浦知良を強引に呼び戻した。
「Jリーグができて3年目。
日本にカズが必要だった。
もう1度、ヴェルディのサッカー、日本のサッカーを引っ張っていって欲しかった」
シーズン終了後、三浦知良はジェノア一員として来日し、横浜スタジアムでヴェルディ川崎との親善試合に出場。
この試合を最後にジェノアを離れヴェルディに復帰した。

J復帰

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1995年8月12日、ヴェルディに復帰しベルマーレ平塚戦で2ゴールを決めた。
9月2日、アントラーズ戦、9月13日、横浜フリューゲルス戦でハットトリックを決めるなど、26試合で23ゴールを挙げた。
同年、震災後の神戸の小学校に行き、激励イベントを開催した。
この小学校に1年生だった香川真司がいた。
スーツを着てサングラスをかけ、シャツの胸元をあけた三浦知良のオーラに感動した。
そして一緒に写真に収まり、抽選ではサイン入りカズバッグを当てた。
「確かあのとき僕は神戸の知人の家に遊びに行っていたんだ。
阪神大震災の被害にあった地域の近くだったので、子供たちを励ましてくれませんかと頼まれて小学校にいくことになった。
そこで後に日本代表の10番を背負うことになる少年がいたというわけだね」
1996年年、1シーズン制となったJリーグで得点王となり、FIFAの世界選抜に選出され、ブラジル代表と対戦した。

ワールドカップフランス大会 日本代表 ワールドカップ初出場 ジョホールバルの歓喜

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1997年、日本代表監督となった加茂周は、チームを三浦知良を中心に考えた。
大袈裟にいうと「カズと心中する」つもりだった。
三浦知良は誰よりも早くグラウンドに出て、ウォーミングアップから必死で行い、誰よりも真剣にボールを追う。
スピードなどはピークではなかったが、その経験と姿勢はチームの大きな力となっていた。
そばでみていた加茂周は
「お前、サッカー好きやな!」
と思っていた。
1997年6月22日、FIFAワールドカップフランス大会アジア1次予選グループ4、第4戦マカオ戦で三浦知良は6得点を挙げた。
(釜本邦茂に並ぶ日本代表1試合最多得点記録)
最終予選B組第1戦のウズベキスタン戦でも4得点を挙げ、日本代表も6対3で勝利。
しかしその後、のUAE戦(アウェイ)を0対0で引き分け。
韓国戦(ホーム)では、1対2で負けた。
この試合で三浦知良は徹底的にマークされた上に、ゴール前でキーパーに背後から蹴られ尾底骨を骨折した。
カザフスタン戦(アウェー)はロスタイムに追いつかれ1対1の引き分け。
試合後、加茂周監督は更迭された。
この時点で

1位 韓国 勝ち点13
2位 UAE 勝ち点7
3位 日本 勝ち点6

UAEがカザフスタンに勝てば絶望的だったがUAEが負けたため、日本はホームの国立競技場でUAEに勝てば2位浮上という希望が生まれた。
そして前半3分、呂比須が豪快なシュートで先制した。
しかし前半のうちに同点に追いつかれ、試合はドローに終わった。
日本代表の予選自力突破の可能性は消滅。
一部のサポーターは三浦知良に罵声を浴びせた。
「お前なんてやめちまえ」
「腹を切れ」
イスを投げつけられ、応戦する三浦知良の姿が放映された。
日本代表での三浦知良の必要性を疑う声が急増した。
 (2188078)

その後、1位通過が決まっている韓国とソウルで対戦し2対0で勝利。
カザフスタン戦も5対1。
3勝1敗4分でUAEを抜いて2位となった日本は、アジア地区の第3代表決定戦をイラン戦と戦うことになった。
試合前日の練習で、イランのフォワード、ダエイ選手とアジジ選手が病院に直行し車椅子でホテルに姿を現した。
(おそらく心理的な作戦)
11月16日、三浦知良は先発し、中山雅史と2トップを組んだ。
前半40分、中田英寿のパスから中山雅史が先制点を挙げた。
しかし後半1分、アジジに同点弾を決められ、次いでダエイに逆転ゴールを奪われた。
ここで岡田武史監督は2トップを組む三浦知良と中山雅史に交代を命じ、城と呂比須を投入した。
交代理由は、試合前のミーティングでの
「フリーキックは中田(英寿)、もしくは名波(浩)が蹴る」
と決めていたのに三浦知良が、それを無視して蹴って大きく外したためだったが、このとき
「オレ?」
と自分を指差したことが話題となった。
「ゴン(中山雅史)? 俺? どっち?」
というジェスチャーだったが多くの人は
「まさか俺?」
というように解釈した。
試合はその後、代わって入った城が2点目を叩き出して延長戦へ突入。
最後は、中田英寿のパスから野人:岡野雅行が劇的ゴールを決め、日本代表はワールドカップ初出場を決めた。
(ジョホールバルの歓喜)
「カズからヒデへ」
「世代交代」
三浦知良は、日本代表として評価されず、Jリーグでも1997年シーズンの成績は出場試合14(全試合数の半数以下)、得点4。
ヴェルディも初めて2桁まで順位を落とした。

代表落ち

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1998年、1993年の発足時、10クラブだったJリーグは18クラブまで数を伸ばした。
日本代表もFIFAワールドカップフランス大会に向け準備を進めた。
2月のオーストラリア合宿で、中村俊輔は初めて日本代表入りした。
現場は6月の本大会に向けてピリピリしていた。
1番年下なこともあってかなり緊張していた中村俊輔は、すぐに肉離れを起こして別メニューとなった。
そんなとき三浦知良に声をかけられ、スッと肩の力が抜け
「さあやるぞ」
と前向きな気持ちになれた。
「初めて代表に召集されてコンディションもできてないのに張り切りすぎたのかもしれない。
ただそのテクニックは当時からずば抜けていて若くても十分に代表でやれる選手だとみていた。
だからこそリラックスして普段通りの力を発揮できるよう声をかけたんだ」
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