「ザ・ランナウェイズ」
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「ザ・ランナウェイズ」のメンバー
シェリー・カーリー(Cherie Currie)1959年11月30日、ボーカル・キーボード担当。
ジョーン・ジェット(Joan Jett)1958年9月22日、ギター・ボーカル担当。
リタ・フォード(Lita Ford)1958年9月19日 、ギター担当。
ジャッキー・フォックス(Jackie Fox)1959年12月20日、ベース担当。
サンディ・ウェスト(Sandy West)1959年7月10日 - 2006年10月21日、 ドラムス担当。
シェリー・カーリー(Cherie Currie)1959年11月30日、ボーカル・キーボード担当。
ジョーン・ジェット(Joan Jett)1958年9月22日、ギター・ボーカル担当。
リタ・フォード(Lita Ford)1958年9月19日 、ギター担当。
ジャッキー・フォックス(Jackie Fox)1959年12月20日、ベース担当。
サンディ・ウェスト(Sandy West)1959年7月10日 - 2006年10月21日、 ドラムス担当。
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1977年にセクシーなコルセットとガーターベルトだけという下着姿の衣装と過激なアクションが日本で注目され、シングル「チェリー・ボム(Cherry Bomb)」は大ヒットとなった。
シェリー・カーリーCherie Currie
現在は「チェリー・ボム」となっていますが。1976年当時の「Cherry Bomb」は「チェリーボンプ」だった。
シェリー・カーリーが下着姿でお股を広げて、チッ、チッ、チッ、チッ!チッ、チッ、チッ、チィー!」と歌いながら前進して来る。
この過激な悩殺アクションがブレイク、物真似をする中高生も現れた。
当時の日本の普通のお店ではこんな下着は見たことがなかった。
今見ても下着姿の衣装は風俗系のお店とかアダルトな映像を連想させる。
しかし、少年っぽいシェリー・カーリーの外見と突き抜ける歌唱のお陰で下品さは感じない。
ただただカッコよかった!
シェリー・カーリーが下着姿でお股を広げて、チッ、チッ、チッ、チッ!チッ、チッ、チッ、チィー!」と歌いながら前進して来る。
この過激な悩殺アクションがブレイク、物真似をする中高生も現れた。
当時の日本の普通のお店ではこんな下着は見たことがなかった。
今見ても下着姿の衣装は風俗系のお店とかアダルトな映像を連想させる。
しかし、少年っぽいシェリー・カーリーの外見と突き抜ける歌唱のお陰で下品さは感じない。
ただただカッコよかった!
70年代にポルノが解禁されていたアメリカからやってきた。
「チッ、チッ、チッ、チッ!チッ、チッ、チッ、チィー!チェリーボンプ!」
「ザ・ランナウェイズ」が日本人に与えた衝撃はすごかった!
「チッ、チッ、チッ、チッ!チッ、チッ、チッ、チィー!チェリーボンプ!」
「ザ・ランナウェイズ」が日本人に与えた衝撃はすごかった!
The Runaways - Cherry Bomb .
ザ・ランナウェイズ 動画「チェリーボンプ」。
via www.youtube.com
「チェリー・ボム(Cherry Bomb)」(1976年)の歌詞の軸には少女の初体験に対する好奇心や憧れがあるように感じるが、実にファンキーな曲だ。
同じ70年代の日本の歌手、山口百恵が歌った「青い性路線」がテーマの「青い果実」(1973年9月)「ひと夏の経験」(1974年6月)とは、異なる初体験へのアプローチが面白い。
同じ70年代の日本の歌手、山口百恵が歌った「青い性路線」がテーマの「青い果実」(1973年9月)「ひと夏の経験」(1974年6月)とは、異なる初体験へのアプローチが面白い。
「ザ・ランナウェイズ」の来日と日本での人気
「ザ・ランナウェイズ」は、日本で大人気になり、レコードの売上げも伸びた。アバ、キッス、レッド・ツェッペリンと同等のレコードセールスを記録している。
数々のテレビ番組に出演した。1977年夏に来日したときは、『ぎんざNOW』に出演している。
数々のテレビ番組に出演した。1977年夏に来日したときは、『ぎんざNOW』に出演している。
「ザ・ランナウェイズ」なんでそこに西城秀樹?
「ザ・ランナウェイズ」のデビュー・アルバムは『The Runaways』(邦題「悩殺爆弾〜禁断のロックンロール・クイーン」)
1977年にセカンド・アルバム『クィーン・オブ・ノイズ』("Queens of Noise")をリリース。ワールド・ツアーを敢行した。
夏に初来日。
日本公演を収録した『ライブ・イン・ジャパン』はゴールドを獲得した。
日本ツアー中にフォックスが脱退を表明した
「ザ・ランナウェイズ」は、新メンバーにヴィッキー・ブルー(Vicki Blue)を迎えた。
続いてボーカルのカーリーが脱退し、ジェットがボーカルとなる。
4枚目のアルバム『ウェイティング・フォー・ザ・ナイト』(Waiting For The Night)をリリース。
1978年にアルバム『アンド・ナウ・ザ・ランナウェイズ』(And Now... The Runaways)発売した。
1977年にセカンド・アルバム『クィーン・オブ・ノイズ』("Queens of Noise")をリリース。ワールド・ツアーを敢行した。
夏に初来日。
日本公演を収録した『ライブ・イン・ジャパン』はゴールドを獲得した。
日本ツアー中にフォックスが脱退を表明した
「ザ・ランナウェイズ」は、新メンバーにヴィッキー・ブルー(Vicki Blue)を迎えた。
続いてボーカルのカーリーが脱退し、ジェットがボーカルとなる。
4枚目のアルバム『ウェイティング・フォー・ザ・ナイト』(Waiting For The Night)をリリース。
1978年にアルバム『アンド・ナウ・ザ・ランナウェイズ』(And Now... The Runaways)発売した。
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篠山紀信が「ザ・ランナウェイズ」を緊急「激写」
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1979年「ザ・ランナウェイズ」の解散
そんな「ザ・ランナウェイズ」も、アメリカ本国での大きな成功には恵まれなかったという。
1978年頃から「ザ・ランナウェイズ」のメンバーの間で音楽や金銭その他で意見が合わなくなる。
マーキュリーとの契約も破棄し、新たにトビー・マミズとマネジメント契約を結ぶ。
アルバム『アンド・ナウ・ザ・ランナウェイズ』(And Now... The Runaways)をリリース
1979年、パンク・ロック的な音楽性のジェットと、ハードロック的な音楽性を追求したいフォード、ウェストの意見が別れる。
そして、同年グループ「ザ・ランナウェイズ」は活動を停止、解散した。
マーキュリーとの契約も破棄し、新たにトビー・マミズとマネジメント契約を結ぶ。
アルバム『アンド・ナウ・ザ・ランナウェイズ』(And Now... The Runaways)をリリース
1979年、パンク・ロック的な音楽性のジェットと、ハードロック的な音楽性を追求したいフォード、ウェストの意見が別れる。
そして、同年グループ「ザ・ランナウェイズ」は活動を停止、解散した。
via www.tumblr.com
「ザ・ランナウェイズ」は活動期間中に
4枚のスタジオ・アルバムとライブ・アルバム1タイトルをリリース。
4枚のスタジオ・アルバムとライブ・アルバム1タイトルをリリース。
1976年にマーキュリー・レコードと契約を果たしデビューした。当時のメンバーの平均年齢は16歳だった。