1968年、コントラ・マッチ(マスクをかけた試合)に敗れ、その後は素顔とミロ・ベンチェラの名前で活動し、1970年にはメキシコプロレス新人王を獲得。
転機が訪れたのは1974年。
雑誌「エル・アルコン」の編集長の依頼で、メキシコでも人気が出ていた『ウルトラマン』の覆面レスラーに転身。
スペシウム光線の決めポーズと、多くのレスラーのマスクを剥ぐ実力で人気を獲得。
1975年にはメキシコプロレス二度目の新人王に輝いた。
1979年、藤波辰巳への刺客として新日本プロレスが招聘。
この時代はまだ人種差別が残っており、ともに巡業するアメリカ人レスラーたちはメキシコ人を歓迎してはおらず、ウルトラマンに対して「ヤツは性病患者だ」とデマを言いふらし、陰湿なイジメをしていたという。
1982年、タイガーマスクの対戦相手として再び新日本プロレスが招聘。
梶原一騎原作の『プロレススーパースター列伝』及び『悪役ブルース』に、タイガーマスクと関わるレスラーとして登場している。
前者ではメキシコマット界が送り込んだタイガーマスクへの刺客で、空手をマスターしている若手レスラー。
後者ではタイガーマスクのメキシコでの友人で、人気・実力共にパッとしない地味なレスラーだったため、タイガーのアドバイスによりウルトラマンの覆面を被るようになったという、全く逆の扱われ方をしている。
だが、どちらも現実とは異なっており、タイガーマスクとの対戦よりはるか以前からウルトラマンとして活動しているキャリア18年の大ベテランレスラーであった。
転機が訪れたのは1974年。
雑誌「エル・アルコン」の編集長の依頼で、メキシコでも人気が出ていた『ウルトラマン』の覆面レスラーに転身。
スペシウム光線の決めポーズと、多くのレスラーのマスクを剥ぐ実力で人気を獲得。
1975年にはメキシコプロレス二度目の新人王に輝いた。
1979年、藤波辰巳への刺客として新日本プロレスが招聘。
この時代はまだ人種差別が残っており、ともに巡業するアメリカ人レスラーたちはメキシコ人を歓迎してはおらず、ウルトラマンに対して「ヤツは性病患者だ」とデマを言いふらし、陰湿なイジメをしていたという。
1982年、タイガーマスクの対戦相手として再び新日本プロレスが招聘。
梶原一騎原作の『プロレススーパースター列伝』及び『悪役ブルース』に、タイガーマスクと関わるレスラーとして登場している。
前者ではメキシコマット界が送り込んだタイガーマスクへの刺客で、空手をマスターしている若手レスラー。
後者ではタイガーマスクのメキシコでの友人で、人気・実力共にパッとしない地味なレスラーだったため、タイガーのアドバイスによりウルトラマンの覆面を被るようになったという、全く逆の扱われ方をしている。
だが、どちらも現実とは異なっており、タイガーマスクとの対戦よりはるか以前からウルトラマンとして活動しているキャリア18年の大ベテランレスラーであった。
タイガーマスクとの対戦以降のウルトラマン
タイガーマスクのライバル化に失敗したウルトラマンはメキシコに戻って活動。
再び人気レスラーとなり、1983年8月12日、アレナ・コリセオでの王座決定トーナメント決勝でアギラ・ソリタリアに勝利してナショナルミドル級王座を獲得し、4度の防衛に成功。
1984年3月2日、アレナ・コリセオでジェリー・エストラーダに敗れて王座転落。
この年からエル・ソラールとスペル・アストロとの宇宙をモチーフとしたトリオタッグチーム「ロス・カデテス・デル・エスパシオ」(宇宙飛行士トリオ)としても活躍した。
再び人気レスラーとなり、1983年8月12日、アレナ・コリセオでの王座決定トーナメント決勝でアギラ・ソリタリアに勝利してナショナルミドル級王座を獲得し、4度の防衛に成功。
1984年3月2日、アレナ・コリセオでジェリー・エストラーダに敗れて王座転落。
この年からエル・ソラールとスペル・アストロとの宇宙をモチーフとしたトリオタッグチーム「ロス・カデテス・デル・エスパシオ」(宇宙飛行士トリオ)としても活躍した。
1987年7月18日、ロスのオリンピック・オーデトリアムでスペル・ムニェコを破りWWA世界ミドル級王座を獲得したが、同年3度のコントラ・マッチ(マスクをかけた試合)で敗れる。
UWAに移籍後はルード(悪役)に転向。
セミリタイア後はジムを運営しながら、マスクをかぶって出場することもあった。
その後、弟子がウルトラマン・ジュニアとしてウルトラマンの名を引き継ぎ、さらに実の息子が二代目ウルトラマン・ジュニアとして、1994年にデビューした。
もちろん、こちらも円谷プロの非公認であるため、1998年に法的なトラブルを避けるためにリングネームをスターマン(Starman)に変更した。
UWAに移籍後はルード(悪役)に転向。
セミリタイア後はジムを運営しながら、マスクをかぶって出場することもあった。
その後、弟子がウルトラマン・ジュニアとしてウルトラマンの名を引き継ぎ、さらに実の息子が二代目ウルトラマン・ジュニアとして、1994年にデビューした。
もちろん、こちらも円谷プロの非公認であるため、1998年に法的なトラブルを避けるためにリングネームをスターマン(Starman)に変更した。
ウルトラマン・ジュニアの試合 2009/10/29 - YouTube
父がかぶっていたウルトラマンの覆面そっくりのデザイン。
via www.youtube.com
その後、セミリタイヤ状態であったが2005年7月19日に後楽園ホールでおこなわれたプロレス団体ドラゴンドアの旗揚戦に出場。
エル・ソラールと組み、初代タイガーマスク&グラン浜田と対戦。
エル・ソラールと組み、初代タイガーマスク&グラン浜田と対戦。
覆面レスラー・ウルトラマンの現在
現役を退き試合は行っていない。
だが、メキシコにおける人気レスラーであったため、インタビュー等の仕事ではウルトラマンのマスクをかぶって出演している。
だが、メキシコにおける人気レスラーであったため、インタビュー等の仕事ではウルトラマンのマスクをかぶって出演している。
ウルトラマンのインタビュー - YouTube
2014年5月17日のインタビュー動画
(スペイン語)
(スペイン語)
via www.youtube.com
もしも、佐山聡が『ウルトラマン』だったら…
佐山聡の活躍によって漫画・アニメ版の人気を増幅させた本家公認の『タイガーマスク』と、日本では十分な活躍ができずにプロレスにおいてはその知名度と人気を活かせなかった本家非公認の『ウルトラマン』。
佐山がタイガーマスクになる以前から、ウルトラマンはメキシコのプロレス界で活動していたために現実的な考えではないが、もしも佐山がウルトラマンとしてマットに立っていたとしたら…。
きっと歴史に残る覆面レスラー『ウルトラマン』が誕生しており、佐山以外が被ったタイガーマスクでは人気が出ず真逆の結果になっていたのだろう。
そして、二代目以降のタイガーマスクも宿敵ブラックタイガーも存在せずに、今もウルトラ兄弟の名を継ぐ覆面レスラーとそのライバル役の怪獣レスラーが日本のマット界を沸かせていたのかもしれない。
佐山がタイガーマスクになる以前から、ウルトラマンはメキシコのプロレス界で活動していたために現実的な考えではないが、もしも佐山がウルトラマンとしてマットに立っていたとしたら…。
きっと歴史に残る覆面レスラー『ウルトラマン』が誕生しており、佐山以外が被ったタイガーマスクでは人気が出ず真逆の結果になっていたのだろう。
そして、二代目以降のタイガーマスクも宿敵ブラックタイガーも存在せずに、今もウルトラ兄弟の名を継ぐ覆面レスラーとそのライバル役の怪獣レスラーが日本のマット界を沸かせていたのかもしれない。
中:ウルトラマン
右:エル・ソラール
3人とも来日経験があるメキシコ人レスラーである。
エル・ソラールは1981年8月に新日本プロレス「ブラディ・ファイト・シリーズ」で初来日。シリーズ最終戦の9月23日・田園コロシアム大会ではタイガーマスクと一騎打ちを行ったが、試合途中で左肩を脱臼するアクシデントに見舞われ、不運な敗戦を喫した。