突然、タモリ作詞の早稲田大学の応援歌「ザ・チャンス」を歌い上げるなどの暴走ぶりにいいともレギュラーの明石家さんまも乱入。
結局、番組終了までゴタゴタが続き、
「有吉佐和子いいともジャック事件」
といわれた。
(有吉佐和子は放送2ヶ月後に逝去)
「キスしましょうか」
といい生放送中にキス。
タモリは
「瞬間的に舌を入れた」
という。
1985年7月8日、いいとものテレフォンショッキングで、伊東つかさが出演。
企画が始まって3年弱で当初のテーマとタモリの願いが叶えられた。
1986年3月、朝丘雪路が宍戸譲を紹介するとき、電話場号をブツブツと呟いてしまい、生放送で全国に宍戸譲の電話番号が知れ渡った。
かつて「オレたちひょうきん族」をつくった伝説「サトちゃん」こと佐藤義和は、ディレクター陣を一新し出演者も大幅にチェンジ。
タモリがこの名物プロデューサーの似顔絵を描き、「サトちゃんシール」となってグッズ化。
元々、メモをとるふりをしてゲストに女性器を表すイラストを書いてみせ、驚いたり、恥ずかしがったり、反応を見るというネタだった。
ある時
「なんてモノを描いているんですか!」
と怒られ
「安産祈願のマークなんですよ」
と言い訳。
こうしてやがてそのマークは安産祈願の神様として有難がられる存在に。
妊婦のゲストが来るとタモリは「安産祈願の祈祷」を行っていた。
しかしゲストに呼ばれた横山やすしは、いつものようにタ隣でイラストを描いているタモリに
「お前何書いてるんや」
とそれを奪い、
「みなさん、こんなの書いてまっせ」
といって、客席とカメラに向けて突き出した。
同年、ユンケル黄帝液のCMでのタモリのセリフ、
「ユンケルンバ ガンバルンバ」
が新語・流行語大賞の特別賞部門・人語一体傑作賞を受賞。
その内容は、
1972年、大晦日の夜、札幌のそば屋へ、2人の幼子を連れた女性がやってきて150円のかけそばを1杯注文。
苦しい懐事情を察した店主は、何もいわず、そばを1.5玉分に増量して出した。
美味しそうに1杯のかけそばを分け合う母子。
この店のかけそばは事故で死んだ父の好物だった。
以後、毎年大晦日の晩、母子にとってこの店に行くことが、また店主にとっては母子にそばを出すことが恒例行事になった。
しかしある年から母子はパタリと来なくなった。
それでも店主は母子のために席を空けておいた。
時は流れて、最初に母子が現れてから14年後の大晦日。
母親と成人して医者と銀行員になった2人の子供がやってきて、3杯分のかけそばを注文した・・・・
というもの。
もともと作者が全国で口演していた話が書籍化されると、口コミでジワジワと人気になり、1988年の大晦日に東京FMの「ゆく年くる年」で朗読されると、1989年1月22日には産経新聞が取り上げた。
バブル最盛の世の中で、飽食の時代に対する警鐘、忘れかけた古き良き日本の慎ましさ、人情を伝える逸話としての大ブームとなった。
しかしタモリは、この感動実話を
「150円あったらインスタントのそばが3個買えたはず」
「涙のファシズム」
と一刀両断。
以後、チマタでも実話か否か議論が起こり、ブームは終わった。
【すべての元祖w】第1回英語禁止ホール タモリ・たけし・さんま お笑いBIG3 世紀のゴルフマッチ(1988年1月3日)【伝説の始まりw】
1988年はタモリが優勝したが、1989年はビートたけしが優勝。
するとタモリは
「あいつらに負けるのは悔しい」
といいともが終わった後、練習に行き、連日、200打近く打ち続けた。
1990年は
「まだ早い」
と出場を拒否。
そして1991年、タモリの第1打は、カメラマンを直撃。
ミスショットの被害にあったカメラマンを気遣うことなく、黙々と次の1打を打つ準備を始めた。
横澤彪一プロデューサーに
「またタモリが負けてやめられたら困る」
といわれたビートたけしと明石家さんまは「接待ゴルフ」的になってしまい、以後、タモリは連続優勝を果たした。
テレフォンショッキングのゲスト、喜多郎とはトークが成立せず、番組後半のコーナーで素人の幼児を
「俺は子供が嫌いなんだ!」
と叫びながら小突くなどの暴走。
同月、テレフォンショッキングのゲスト、桑野信義がお友達で志村けんを紹介したとき、
「明日なんですけど、大丈夫でしょうか?」
とタモリが聞くと志村は
「明日ゴルフなので」
と断わった。
「出るわけにいかないですか?」
「明日は天気がいいもので」
結局、桑野はモト冬樹を紹介することとなった。
この頃の志村けんはコント番組以外に出ることはほとんどなかった。
約10年後、作家の嵐山光三郎の紹介を受けて初めて、2007年、加藤茶の紹介で2回目、2013年、バカ殿様の番宣で3回目のテレフォンショッキングを果たした。
ゲストが週替わりで自分の好きなテーマを20分間、ノーCM、ノー編集で講演するという番組で、タモリのテーマは
「私が各種行事に反対している理由とソ連崩壊の関連性」
職種、職位、既婚未婚、友人の数など、自分自身の状況を横軸。
家系、親が医者、子供が東大生など自分の周囲の状況を縦軸。
縦軸と横軸が交差したものが自分であり、
「そうなると自分というのはいったい何か、絶対的な自分とは何か、わからなくなってくる。
そういうあやふやなもので自分が成り立っている」
とし、結局、横軸も縦軸も
「余分なもの」
であり、それらを切り離した状態を
「実在のゼロ点」
と名づけ、
「人間とは精神であり、精神は自由であり、自由とは不安である」
とした。
自分で何かを規定し、決定し、意義づけ、存在していかなければならないのが人間であり、それが自由であるとすれば必ず不安が伴うとし、
「この不安をなすくためには自由を誰かに預けたほうがいいと人間は考える。
私に言わせれば、人間は不自由に為りたがってるんですね」
だからこそ人は
「家族を大切にする父親」
「どこどこの総務課長」
といった役割を与えられると安心する。
この役割がシガラミという糸になる。
大人になればシガラミを無視することは難しい。
少年~青年時代はシガラミがない時期で、タモリは
「若者よ、シガラミを排除して、実在のゼロ点に立て!」
と力説。
それを経験するかしないかで大人になった後、腹のくくり方や覚悟の仕方が違ってくるという。
「奥さん、お宅の娘さん、いまセックスしてますよ」
「テレビの前のよい子のみんな、お前を殺す!」
など狂気を感じさせる言動でしばしばアルタとお茶の間を凍りつかせた。
運転免許を紛失したと偽り、3度、免許を再取得。
アフロヘアー、眉毛と前髪を剃る、ギブスをつけて重症患者風、と異なる写真でつくった免許証をみせて爆笑を奪った。
が、その後、虚偽の紛失届で免許証を再取得していたことが問題となり、道交法違反で書類送検された。
監督 野村芳太郎
出演 渡瀬恒彦, 十朱幸代, 中野良子