「南海の三悪人」とは
野村が選手兼任監督を務めたのは、1970年から1977年までの8年間。そのうち、1970年に入団した門田とは8年間フルにチームメイトで、江本は移籍してきた1972年から4年間、江本とのトレードで移籍してきた江夏とは1976年から退任までの2年間付き合いがありました。
学年は、門田と江本が同級生、江夏がその一つ下です。門田は江本、江夏いずれもチームメイトになりましたが、江本と江夏は互いにトレードの相手だったので、一緒にプレイしたことはありません。
選手名 | 生年月日 | 南海在籍期間 | 野村とプレイした年数 |
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門田博光 | 1948年2月26日 | 1970年〜1988年 | 8年 |
江本孟紀 | 1947年7月22日 | 1972年〜1975年 | 4年 |
江夏豊 | 1948年5月15日 | 1976年〜1977年 | 2年 |
江夏 vs. 江本 対談
門田博光
ある年のオープン戦で巨人と対戦する際、門田氏を王貞治氏のところへ連れて行き、話を聞かせた。
「ワンちゃん、ちょっといい? ワンちゃんはいつもホームランを狙って打っているの?」
「とんでもない。ヒットの延長がホームランですよ。ホームランを狙って打てるなら、今ごろ1000本くらい打ってますよ」
このような会話を交わしたそうなのだが、門田氏は黙って聞いていたという。そして監督が「ほら見ろ、ワンちゃんだってああ言ってるぞ」と言うと、不貞腐れたような表情でそっぽを向いていたそうだ。
「なんや?」と尋ねる監督に、門田氏は「監督はずるい。王さんと前もって打ち合わせしたんでしょ」と返したそうだ。これには監督も呆気に取られ、「もういい。勝手にせい!」と言い放ったのだという。
それでも、野村監督は、門田を高く評価しており、打順は自身の前の3番に据えます。その期待に応え、門田は2年目にして、打点王のタイトルを獲得。本塁打も野村監督を超え、「大振りしないで塁に出ればいい」と言っていた監督からすれば、快く思っていなかったかもしれません。
1977年オフに野村監督が退任すると、チームは暗黒時代に入りますが、門田は自由に自分の好きなバッティングができるようになります。その後は、3度の本塁打王と2度目の打点王のタイトルを獲得。567本塁打、1678打点は、いずれも王、野村に次ぐ歴代3位の記録です。
江本 vs. 下柳 対談
江本孟紀
野村の言葉通り、江本は、背番号16番を付け、移籍初年の1972年に背番号と同じ16勝を記録。翌1973年は前後期制が導入され、江本は9勝6敗、防御率1.52で前期優勝に貢献します。阪急とのプレーオフでも、第3戦で完投勝利を挙げ、第1戦、第5戦では抑えの切り札として登板し、南海ホークスリーグ優勝の胴上げ投手となりました。巨人との日本シリーズでも第1戦に登板し、完投勝利を挙げています。
江本氏は25歳だった1971年のオフに東映から南海へトレード移籍した。野村さんについて江本氏は「この人は言葉が上手い」とひと言。会った初日に「お前の球は俺が受けたら2桁は勝つよ。だからエースナンバー付けとけよ」と言われたという。その言葉に身震いするほど感動した江本氏。結果的に1972年のシーズンは野村さんとのバッテリーで16勝をマークした。
江本 vs. 高木豊 対談
江本 vs. デーブ大久保 対談
江本 vs. 槙原 対談
江夏豊
会食の当日、野村監督が開口一番発したのは意外な一言でした。
「おい江夏、あの時の球、意識してボールほうったやろ」
それは、1975年10月1日の対広島戦、満塁フルカウントの場面で、江夏が衣笠に意図的にボール球を投げて三振をとったピッチングのことでした。江夏は自身の策を見抜いていた野村の深い読みに心を掴まれ、トレードを承諾します。
移籍一年目の1976年は、防御率こそ2.98ながら、6勝12敗9セーブと大きく成績を落とします。先発で長いイニングを投げられなくなっていた江夏に、野村監督はリリーフへの転向を提案。最初は頑なに拒んでいた江夏でしたが、「野球界に革命を!」の言葉に再び心を掴まれ、リリーフ転向を承諾します。そして、翌1977年は19セーブを挙げ、最優秀救援投手のタイトルを獲得しました。
野村監督の退任が決まると、自身も移籍を希望。金銭トレードで、広島東洋カープに移籍します。その後の江夏は、抑えの切り札として本当に革命を起こし、最多セーブ6回と守護神として大活躍。広島の日本一、日本ハムのリーグ優勝に貢献しました。
剛腕・江夏にとっての「革命」、それは野村克也と出会ったことでのリリーフ転向だった。阪神のエースとして君臨した江夏だったが、チームの和を乱すとの酷な理由で南海へとトレードに。放出は江夏にとって耐え難い屈辱だったが、そこに待っていたのは選手兼任監督の野村だった。
先発完投が花形とされていた昭和の時代にクローザー転向を提案。「革命を起こせや」との野村のメッセージは語り草になっている。
実はこの発言、野村が考え抜いた殺し文句ではなく、会話の終わりに偶然出たものだったらしい。それでも「俺にとっては身に突き刺さる、新鮮な言葉だった」と江夏の心をたぎらせたのだった。