全球団敗北を達成したのはあの大投手
セ・パ交流戦がなかった頃、公式戦でセ・パ全12球団から勝利を挙げるのは至難の業でした。交流戦があれば最低2球団に所属すれば達成可能ですが、交流戦がないと少なくともセ・パ各2球団(計4球団)に所属しなければなりません。全球団勝利を挙げた投手は3人(野村収、古賀正明、武田一浩)います。
一方、全球団勝利より難しかったのが全球団敗北。達成した投手はたった1人しかいません。12球団になった1958年から交流戦が始まる前年の2004年までで、全球団敗北を達成したその投手とは、、、
江夏豊です。
江夏ほどの大投手であれば、全球団敗北の前に、全球団勝利を記録していそうなものですが、意外なことに、ある1球団から勝利できないまま現役を引退しています。
それでは、江夏の全12球団初敗北の記録を、時系列で見てみましょう。
一方、全球団勝利より難しかったのが全球団敗北。達成した投手はたった1人しかいません。12球団になった1958年から交流戦が始まる前年の2004年までで、全球団敗北を達成したその投手とは、、、
江夏豊です。
江夏ほどの大投手であれば、全球団敗北の前に、全球団勝利を記録していそうなものですが、意外なことに、ある1球団から勝利できないまま現役を引退しています。
それでは、江夏の全12球団初敗北の記録を、時系列で見てみましょう。
1967年4月19日 大洋ホエールズ
江夏は1966年、ドラフト1位指名で、大阪学院大学高から阪神タイガースに入団。翌1967年、入団一年目から先発として起用されます。
初登板は、4月13日の大洋戦。2回裏から4イニングを投げ、無失点に抑えます。しかし、4月19日の同じく大洋戦では、初先発を果たしますが、スチュアートにホームランを打たれるなど初回に4点を献上。2回ノックアウトで、プロ初敗北を喫します。
因みに、4月29日の広島戦では、プロ初勝利・初完投勝利を果たしています。
初登板は、4月13日の大洋戦。2回裏から4イニングを投げ、無失点に抑えます。しかし、4月19日の同じく大洋戦では、初先発を果たしますが、スチュアートにホームランを打たれるなど初回に4点を献上。2回ノックアウトで、プロ初敗北を喫します。
因みに、4月29日の広島戦では、プロ初勝利・初完投勝利を果たしています。
1967年6月7日 広島カープ
5月は絶好調で、中日、サンケイ、広島、大洋、巨人の順に、すべての敵チームから勝ち星を挙げます。しかも、5月28日の大洋戦は、プロ初完封勝利。5月が終わって6勝1敗と、新人らしからぬ大活躍を見せていました。
しかし、6月に入ると一転。いくら好投しても、勝ち星につながりません。6月7日の広島戦では、7回3失点で先発としての責任を果たしますが、味方の援護がなく敗北。以後、6月はすべて黒星に終わります。
しかし、6月に入ると一転。いくら好投しても、勝ち星につながりません。6月7日の広島戦では、7回3失点で先発としての責任を果たしますが、味方の援護がなく敗北。以後、6月はすべて黒星に終わります。
1967年6月26日 中日ドラゴンズ
6月26日の中日戦は、4回3失点でノックアウト。味方打線も沈黙し、完封負けを喫します。6月はこれで3連敗。それでも、勝敗は6勝4敗、防御率は2.13で、依然として新人らしからぬ成績を残していました。
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1967年7月23日 サンケイアトムズ
7月23日のサンケイ戦は、同期で同学年の浅野啓司との投げ合いとなります。浅野も、江夏と同様に一年目から好調で、3勝1敗と活躍を見せていました。この試合では、阪神が1点を先制しますが、江夏が6回に捕まり計5失点。新人・浅野に4勝目を献上する、屈辱の結果に終わります。
1967年8月15日 読売ジャイアンツ
江夏はここまで、巨人戦では好投を続けており、8月2日には2勝目を挙げていました。8月15日の巨人戦も、金田正一との投げ合いで、投手戦の好ゲームとなります。先制したのは阪神。7回を終わって1対0とリードします。しかし8回裏、ついに江夏が捕まり2失点。その後味方の援護はなく、好投にもかかわらず、無念の敗北を喫します。
登板数が多かったことから、一年目で全敵チームからの敗北(および勝利)を達成しました。この年、12勝13敗と負け越すも、225奪三振はリーグ最多を記録しています。
1967年は、黄金バッテリーの相方、田淵幸一はまだ入団しておらず、バッテリーを組むのは、田淵が法政大学からドラフト1位で入団する1969年からです。
登板数が多かったことから、一年目で全敵チームからの敗北(および勝利)を達成しました。この年、12勝13敗と負け越すも、225奪三振はリーグ最多を記録しています。
1967年は、黄金バッテリーの相方、田淵幸一はまだ入団しておらず、バッテリーを組むのは、田淵が法政大学からドラフト1位で入団する1969年からです。
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1976年4月13日 阪急ブレーブス
長年チームのエースとして多大なる貢献をしてきた江夏ですが、入団10年目を迎える1976年、なんと阪神球団は江夏をトレードに出します。トレードの相手球団は、南海ホークス。当初、江夏は失意のどん底にありましたが、野村克也監督の話に感銘を受け、南海への移籍を承諾します。
移籍初年の江夏は、投球内容はさほど悪くなかったものの、味方の援護がない試合が多く、防御率は2.98ながら、6勝12敗9セーブと大きく負け越してしまいます。パ・リーグの敵チーム敗北も、この年にすべて記録しました。
4月9日の近鉄戦では、8回無失点初勝利と幸先の良いスタートを切りますが、4月13日の阪急戦は、当時最強の阪急打線に捕まり、5回途中4失点で降板。パ・リーグ初敗北を喫しました。
移籍初年の江夏は、投球内容はさほど悪くなかったものの、味方の援護がない試合が多く、防御率は2.98ながら、6勝12敗9セーブと大きく負け越してしまいます。パ・リーグの敵チーム敗北も、この年にすべて記録しました。
4月9日の近鉄戦では、8回無失点初勝利と幸先の良いスタートを切りますが、4月13日の阪急戦は、当時最強の阪急打線に捕まり、5回途中4失点で降板。パ・リーグ初敗北を喫しました。
1976年4月17日 近鉄バファローズ
ここから江夏は、なかなか勝てなくなります。4月17日の近鉄戦。7回2失点(自責点1)の好投を見せますが、味方の援護がなく敗北。以後は、シーズン終了まで常に黒星が上回ります。