完全試合をマークした点において外木場は沢村に勝る!
1965年10月2日、プロ2度目の先発となる阪神戦で、ノーヒットノーランでプロ初勝利を飾る。以後2年間は伸び悩むも、1968年、根本陸夫監督から安仁屋宗八と共に先発の柱を任せられ、年間21勝を挙げて最優秀防御率のタイトルを獲得した。また9月14日の大洋戦では完全試合(16奪三振)を達成。さらに、1972年4月29日の巨人戦で、史上2人目となる3回目のノーヒットノーランを達成する[2]。プロ野球史上、3度のノーヒットノーランを達成したのは沢村栄治と外木場の二人のみであり、2リーグ制以降の投手としては唯一の達成者である。
沢村栄治は完全試合を達成したことはなかった。3度のノーヒットノーランのうち完全試合を1度達成した外木場は、その点で沢村栄治の上を行くと言っても良いだろう。
ちなみに、1966年5月1日、広島は広島市民球場で大洋の佐々木吉郎に完全試合をやられていた。しかし、1968年9月14日、広島市民球場で外木場が完全試合を同じ大洋相手にやり返したのだった。広島市民は溜飲が下がったことだろう。
ちなみに、1966年5月1日、広島は広島市民球場で大洋の佐々木吉郎に完全試合をやられていた。しかし、1968年9月14日、広島市民球場で外木場が完全試合を同じ大洋相手にやり返したのだった。広島市民は溜飲が下がったことだろう。
「なんなら、もう1度やりましょうか?」
プロデビュー2戦目で、憧れの阪神の大エース村山と対戦し、初勝利をノーヒットノーランで飾り、あっと言わせた外木場だが、記者に対する答えも新人離れしていた。
プロ2度目の先発だった65年10月2日の阪神戦(甲子園)でノーヒットノーランを達成したが、試合後の取材中に「こういう記録を残すと短命だけど」と声をかけられた。外木場氏は「それならもう一回やってやろう」と反骨心に変えた。
気性の強い選手であった。ノーヒットノーランを初めて達成した時のインタビューで「なんならもう一度やりましょうか」と答え、後に本当に達成することになったのは、ファンの間で伝説として語り継がれている。
1975年カープ初優勝!最多勝!沢村賞!
3度の大記録も嬉しかったが、格別な思いを抱いたのが75年。広島が球団創設26年目にして初優勝した年に20勝をマークし、見事沢村賞を受賞した時だった。「沢村さんの名前がついた投手として最高の賞。感無量です」と外木場にとって、投手人生最高の瞬間だった。
沢村と同じ背番号14だった。
広島東洋カープ 1975年初優勝 - YouTube
外木場はエースとして、万年最下位の弱小チームの初優勝に大きく貢献した。当時は連盟表彰はなかったが最多奪三振も獲得。
優勝が決まった瞬間、観客がスタンドからグランドに飛び出して大騒ぎになるシーンは、牧歌的な古き良き時代を象徴している。
優勝が決まった瞬間、観客がスタンドからグランドに飛び出して大騒ぎになるシーンは、牧歌的な古き良き時代を象徴している。
via www.youtube.com
豪快なフォームから繰り出す豪速球と決め球のパワーカーブ!
外木場の投げるカーブは堀内恒夫などに見られるタイミングを外すカーブとは異なり、メジャーリーグにおいて "power curve" と呼ばれる、曲がりの鋭さで打者を翻弄するものであった。
パワーカーブで有名なのは、イチローをして「完璧な投手」と言わしめたMLBのペドロ・マルティネス。外木場は当時スピードガンがあれば150キロ台は出ていただろうと言われているストレートとパワーカーブの2球種のみで勝負していた。
via cyclestyle.net
外木場が田淵に投げた頭部死球の産物とは?
コントロールが乱れた球は田淵の頭部めがけて向かってきた。避け切れるはずもない。外木場の重い球質のボールが田淵の左側頭部を直撃。田淵はバットを持ったまま、昏倒した。
慌てて駆け寄った三塁コーチスボックスの本屋敷錦吾コーチが見たものは、左耳からおびただしい血を流し、ビクリとも動かない巨体だった。顔面蒼白の田淵を見て広島・久保祥次捕手、谷村友一球審は顔を見合わせ、急いで担架を用意するよう大声で叫んだ。騒然とする甲子園、というより驚いた観客は波を打ったように静まり返った。
実はこのデッドボールがきっかけで、耳あて付きヘルメットがバッターに義務付けられるようになったことは、あまり知られていません。
この措置に猛反対したのが、カープの衣笠祥雄さんです。耳あてが付いたヘルメットをかぶると視界が遮られ、逆に頭部付近のボールから逃げられなくなると主張したのです。機構側は衣笠さんの主張を一部認め、プロで一定程度の年数を満たした選手に限り、耳あてなしヘルメットの使用を許可したという話を本人から聞いたことがあります。確か王貞治さんも衣笠さん同様の理由で、耳あてなしヘルメットを着用し続けました。
今では当たり前となった耳あて付きヘルメットですが、全選手の着用が常態化するまでには、田淵さんの悲劇と、そこから先の紆余曲折があったのです。